2015年9月14日月曜日

2015/09/14

今まで、自分のことを、(特に子供のころのことを)突き詰めて考えたことはなかった。
犯罪者となり、監獄に入り、自分自身と向き合う。
そんな経験がなかったからか、とにかく、必死で、自分と向き合うこともなかった。
今、かりそめだが、そんな自分と絶えず向き合っている。
内臓の具合が悪く、放っておいたら死ぬといわれて、人工の臓器を使うようになり、それによって、サラリーマンのように、毎日、クリニック通いを余儀なくされ、数時間ベッドから離れられない状態になった。そんな状況では、いやがうえにも、自分を見つめるようになる。犯罪者が懲役の中で過ごすのとは、かなり違うが、ベッドで過ごす時間そのものは、檻の中にいるとのと、さして変わらないのではないかと思える。
抜け出すことができないという一点においても。
しかし、それでも、子供のころのことを思い出すのは、いい時のことばかりで、辛かったことなどは、思い出そうとしても、それを拒む何かが働いていて、つきつめて考えるようなことはなかった。
拒否している自分を感じた。
今でいう虐待だが、身体的虐待というよりも心理的虐待の方が大きかったのではないか。そんな気がする。
それでも、60年以上生きてきたのだから、もうそれは克服したはずだ。今更、書く必要なんてない。
そう思うし、それは、ずっと自分の中だけにとどめて置くことだと思っていた。
数日前のことだ。
「黒子のバスケ」脅迫事件というのが、ネットを見ていたら、目に留まった。
「黒子のバスケ」って何だろう? 全く知らない言葉だった。調べると、そんなマンガかあるのだという。かなり評判にもなり、キャラクターグッズなんかも販売されていることを知った。
では、「黒子のバスケ」脅迫事件というのは?
これも、確か二年ぐらい前か、テレビや新聞で、報道されていたことを思い出した。「グリコ森永事件」に似たような、根拠不明な脅迫事件だったような気がする。
これもまた、それほど僕の興味を誘わなかった。思い出してみても、あまり記憶にはなかった。そんな事件があり、いつの間にか解決したんだろうと思っていた。

もちろん、実際、その事件は解決していた。
渡邊博史と言う男が犯人で、逮捕時、刑事に「負けました」と笑ったというらしいことが、新聞に載っていたらしい。もとよりあまり興味のなかった僕は、それすら知らなかった。
二年前と言えば、僕にもいろいろあり、社会で起きていることに目を通していることができずにいたからだ。
自分のことで精一杯の時には、なかなか社会問題には、目が向かない。少し、余裕がなくては無理な話だ。
タイミングがずれていたのだ。
だからといって、そのころ僕がこの事件に興味を持っていたとしても、「また人騒がせな奴が出てきたものだ」ぐらいにしか思わず、素通りしていたに違いないのだが。

最近になって、ネットを検索、そのことに触れた文章が目に留まり、はじめて事件のことを知った。
いや、事件のことを知る前に、彼の書いた、最終意見陳述と、それへの文を読んで、何か、得も言われぬおぞましさと同時に、自分の中で、共感をに似た感情があるのに、気づかされた。
この感情は一体何なのだろう。

安保反対デモは、60年代のころこそ、あまり知らないが、70年代の時には、多少興味を持った。それでも中学生だった僕に、何ができるわけでもないと思った。親たちから、バカ呼ばわりされていたデモに参加しようなどとは、思いもしなかった。
そして今、戦後70年。法案が強硬採決され、憲法解釈で、集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。もちろんこのことに興味のない人はいないだろうが、それを体を張って阻止しようとは思わないし、考えもしない。デモにも、参加したことはない。
それは、ひとえに集団行動があまり好きではないということからきているのだが、(実際、選挙も集団行動と言えるので、僕は、消極的だ)それでも日本が奈落の底に突き落とされ、二度と這い上がれなくなるのを、ただ指を加えてみているのかと言えば、そうはしたくない。そうはしたくないが、方法が見つからない。見つからないまま、知らないうちに、困った法案が次々に決まっていく。

「黒子のバスケ」脅迫事件は、そんな政治のこととは無関係な事件で、いわゆる愉快犯の犯行だと思っていた。事実、彼が出版した、「生きる屍の結末」の中の、事件のあらましを読んでいると、愉快犯という言葉が、頭をよぎった。彼の書いた最終意見陳述とは、かけはなれた行動であり、やはり読むんじゃなかったという気持にさせられた。
しかし、次の章の生い立ちを読みながら、奇妙な思いにとらわれていった。
そこにかかれていることと、僕が経験したこととの間に、それほどの差異がなかったということだ。
そこにあたかも自分がいるかのような錯覚に陥ったこともある。
そして、再び、最終意見陳述を読んだ。
そこに書かれている造語のような言葉に、ひとつひとつ立ち止まり、最初にネットで読んだ時と同様の、戸惑いと共感に僕は、衝撃を受けた。

「無知の涙」は、連続殺人犯永山則夫の獄中で書かれた手記を出版したものだが、僕は、この本を20代前半で読んだが、今では、そこに書かれていたことをほとんど思い出すことはできない。
読んでいる時でさえ、難解なその文に辟易したぐらいだから、覚えていないのが当然だろう。
しかし、渡邊博史のこの手記には、それほど難解なところはなかった。
ないどころが、言葉のひとつひとつが胸に突き刺さり、自分を打ちのめしていくのだ。
これは、何だろう? 何が僕の中で起こったのだろう?
驚きは、この本を閉じるまで続いた。

読み方によれば、これは、犯罪者の身勝手な言い訳に過ぎないのかもしれない。
しかし、確かに、この文章には、惹きつけるものがある。
偽悪的であり、露悪的でもある。
しかし、魅力があり、共感がある。
今、この本を手にしながら、その感想めいたものを書きながらも、まだ、この文を書いている衝動がどこから来たのかわからないでいる。


香山リカさんが、この本の解説で、最後に、感謝の言葉を述べているが、それに近いものが僕にもあることを、僕は、まだはっきりとは、認識できないでいる。
僕にとって、この本は悪書であり、良書だ。
少なくとも、今、読むべき本であることは確かなようだ、




10月19日に思うこと、

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