2021年10月21日木曜日

10月19日に思うこと、

 総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。

議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。

TBSの金平氏が、「いまはもう彼らは国会議員ではなく、ただの人です」と言っていた。

「ああ、そうなんだな。彼らはただの人なんだ」と頷いてみる。選挙で勝てば、また偉そうな顔ができるが、負ければ、肩をすくめて冷や飯ぐいとなる。

しかし、冷や飯だろうと何だろうと、飯が食えないことはないんだろう。今まで、月に百万を超える給料を貰っていたのだから、向こう何年かは、食っていくことぐらいはできるんだろう。そう思うと、嫌になる。彼らは、いつも吠えるが、自分の身が飢餓に晒されることはない。

テレビのチャンネルを変えてみる。

各局のキャスターが、高そうなスーツを着て、喋ってる。スーツだけじゃない。身に着けているもの何もかも、高級なものだ。

それでいて、口から出てくるのは、貧困の二文字。コロナ禍で、仕事を失った人たち。非正規でのシフト減に食べていくことが出来なくなり、職を変えてもうまくいかず、ついには、家賃も払えずに、路上へと出る。所持金は数百円。NPOの人たちが手を差し伸べいくらかの生活費を渡すが、それも数日のうちになくなるのは火を見るより明らかだ。

数年前まで、河川敷にはたくさんのホームレスがいたが、今は、いない。ホームレスがいなくなったのではなく、ただそこから排除されただけなのだ。それを証拠に、炊き出しなどがあるとたくさんの行列ができる。ボクらの見えないところで、彼らは、息をひそめて暮らしている。

貧富の差がどんどん開いていく。

貧しい人たちに寄り添った政治をと、当たり前のことをことさら深刻ぶって、テレビのキャスターは言う。自然と仕立てのいい服のほうに、目がいってしまうが。

振興富豪とかいう連中は、六本木辺りのタワーマンションで、毎日何度もウーバーイーツで、ジャンクフードを食らいついている。彼らに、何か、後ろめたさのようなものはないのだろうか? 自分より年上の配達員に出前をさせて、ご苦労さんの一言もない。もちろん、顔を合わせることもないから、あいさつのしようもないのだけれども。

昔、ボクのうちも、出前を取っていたが、家が商売をやっていたので、仕方のないことだった。できれば店に行って食事するのが当たり前で、出前を取るには、抵抗があった。コロナ禍のなか、外出自粛仕方なく宅配を利用しているのはわかるが、何か、感覚が鈍化していることは確かではないか。

昔と今は違う。出前の人は出前の人で、それが仕事なのだ。食べていくよりどころなのだ。金を貰って食いしのいでいる。仕事なのだから、より多く稼げればいいわけで、頼むほうも、配達するほうも、仕事だからと割り切って、変な妬みも、罪悪感もなくなってしまっているのだろう。

昔の出前は、修行の一つで、それが仕事といえば仕事だが、配達すれば金がもらえるわけではなかった。

社会の仕組みが変わっている。ここ東京では、それが顕著だ。

エコだか何だか知らないが、ものを買っても、袋一つ入れてはくれない。

袋がいるなら、何円かの金を払わなくてはならない。でなければ、エコバッグなるものを持ち歩き、そこに入れる。

最近では、洒落たエコバックもあるようだが、使ったその日に、洗濯するわけでもなく、何日も持ち歩いているのだろう。その中には、泥だらけの野菜が入ってる時もあれば、弁当が入ってる時もある。日常品は何でも入れる。不潔と言えば不潔だが、あまり気にしている人はいない。

昔のような過剰包装がいいというわけではないが、何を買っても、袋代を払わなければ、袋に入れてくれないのは、違和感しか抱かない。「×円ですが、袋に入れますか?

こう聞いてくるのは、まだ良いほうで、最近では当たり前なのか、「袋に入れますか?」とだけだ。

ちょっとした人間関係だが、スムーズにはいかない。カチンと来ることもある。

これからは、プラのスプーンなんかにも、いちいち金を取られるのかも知れない。国の対策の真っ先の実行者は、常に国民だ。企業ではない。

これからは、何でもかんでも、エコや脱酸素を理由に、持ち歩かなければならない。

マイハシやマイスプーンなど。プラ製品なら何でも、持ち歩かなければならないとしたら、これもまた面倒であり、不潔でもある。

もっとも、毎日、洗い物をすればいいということなのだろう。

エコを国民に押し付けるのはいいが、企業は、そのような努力をしているのだろうか。カーボンニュートラルをいいことに、あらゆる場面で、エコロジーが推奨されているが、原発は、次々に、再起動していくようだ。

原発と、エコロジーを一緒にするなよと言われるかもしれない。しかし、地球環境を壊すという点では、同じだ。原発は、膨大なエネルギーを産出するのかもしれないが、東日本大震災以来、多大なリスクを絶えずしょっている。廃棄物の処理の目途もたっていない。なのに、再起動だ。これを論外と言わずして、何と言おう。

原発推進を唱える人々の人間性というものがどういうものなのか、ボクには理解できない。理解したくもない。

コロナが下火になったとは言え、毎日、何人もの人たちが亡くなっている。自宅待機者はどうなっているのか? 最近では、その話題にも触れない。その日の亡くなった人の人数をぽつりと呟くだけだ。そして、いっぱくおいて、ニュース番組となる。キャスターたちの笑顔。不気味だ。

政治の世界では、賄賂が横行し、公文書は、改ざん。のり弁の報告書が、公然とまかり通る。

ありえないことが、毎日のようにテレビや新聞、週刊誌に出てくる。明日があるようには見えない。

明日なき世界。

変えられるのか? そんな世の中を。すべてを変えなければならない。できるのか、奴らに。

託すのは、紙切れ一枚。

さあ、始まった。


2021年9月25日土曜日

ルーロー飯と、ザンギと、オリパラと、

 

ずいぶん前から、ルーロー飯のことは知っていたが、なかなか食べに行く機会がない。香港料理なのか台湾料理なのかもわからないので、ネットで調べたが、はたして、どちらにでもあるようでないようで。台湾料理店に行けばありつけるのではと水道橋あたりにあたりをつけて、何度か行ってみたのだが、結局、王将のテイクアウトにしたり、家族の好物の、唐揚げにしたりで、ひと月ふた月があっという間に過ぎてしまう。

唐揚げ屋は近頃、至る所にできていて、近所にも何軒かあるのだが、元タピオカ屋だった店が唐揚げ屋にいつの間にかなっていたりして、同じ経営だったりすると唐揚げもたいしたことはないんじゃないかと思い、どうせ食べるなら、他とは違う少しは手の込んだ唐揚げが食べたいと思い、こちらも、簡単には、手を付けられなくなっていて、またの日にしようということになる。

食べ物にそんなにこだわりがあるわけではないのだが、どうせ食べるならうまいものをと、あれこれネットで検索するが、何軒か検索した店も、コロナ禍で、休んでる店もあるみたいだし、時間短縮で、思った時間に行くことができない。

そんな時に、息子が何となくみつけてきた店があったので、「今日はここにしよう」と、珍しく迷いを断ち切って、行ってみた。

九段下にある「五坪」という店で、マップ頼りに行ってみたら、以前中華料理店があった店で、以前、飯田橋に事務所があったときに、一度入ったことがある。飯田橋駅の近くにもある店で、もう何十年も前に入ったことのある店。「ああ、ここも潰れたのか」と、感慨ひとしおだったが、きめたことはきめたことだし、息子ももう唐揚げモードに入っていたので、仕方ない、ボクの感慨は、脇に置いておいて、新しくできた店に、唐揚げを買いに行ってもらった。

この店では、唐揚げのことを「ザンギ」と呼んでいて、ああ、北海道式の唐揚げかと好感をもてたのだが、それは、北海道で食べた唐揚げが、ザンギと名を変えて出ていて、肉に味が染みていて、おいしかった記憶があるためだ。

ボクは、「ザンギ」を探していたのだと思い出し、それなら、今日は、腹いっぱい食べてみようと、20個ばかりを息子に買いに行かせて、今日は腹一杯食べようとルーロー飯のことも忘れて、持ち帰った。

家に帰って早速食べたのだが、なるほど「ザンギ」は、唐揚げとは違っていて、味が染みていて、うまい。しかも一個一個が、やたらと大きく、これであの値段では、安いなとか言いながら、二個をたてつづけに食べたら、もういけない。腹がもたれてきたのだ。胃か?

最近、油物を食べると、すぐに腹がもたれて、一日中、こなれてないような、いやな気分になる。

みんなは、むしゃぶり食べているのだが、ボクは早々に離脱してみんなの食べるのを眺めるだけにした。

唐揚げは、せいぜい二個までが今のボクの限界と知り少し寂しくなった。

それでも、何日かした後、またルーロー飯のことが頭をもたげてきた。

飯田橋に前から行きたかった香港料理の店があるので、またもや家族で、そこへ行ってみたのだが、果たして、メニューにはない。しかたがないので、あきらめて、ほかの料理をいくつか注文して食べた。何を食べてもおいしいのだが、当てが外れてしまい、気持ちの整理がつかない。なんで、いまやどこでも食べられるはずのルーロー飯が食べられないのか?

一晩悩んだ。

でも、翌朝になると、ルーロー飯のことはすっかり忘れていて、別の料理や、ラジオ番組や、映画とかに頭が向かっいて、何日目かの夜に、ふと見たYouTubeで、ルーロー飯に再会した!

そうだ! これを棚上げにしていては何もなしえない!

で、豊洲の「アオキ」に向かい、とにかく食材を買い込んだ。なかなか店に行けないなら、自分で作るしかない、そう決めたのだ。

ルーロー飯に欠かせないのは、五香紛というスパイスらしい。(別になくてもいいのだが)それを加えてみると、なるほど、台湾だか香港だか中国だかの料理の香りがしてくる。

オイスターソースが家にあったで、入れてみると、まさにこれがルーロー飯か! という味になった。

小ぶりの丼に、ルーローをかけて、奥さんに買ってきてもらった青梗菜の茹でたのを添えて、おしんこがなかったので紅ショウガも添えた。

がぶりと一口食べて感動した。

これだよ、ボクの求めていたルーロー飯は! これなんだ!

と、ひとり唸った。

しかし小丼一杯がやっとだった。

唐揚げと同様か、それ以上に腹にもたれてきたのだ。

500グラムほどのばら肉のかたまりで作ったので、何食分かはある。はたしてこれをどうしたものか。

今もびっしりとラードの白い層の浮いたルーローは、冷蔵庫にあるが、息子が沖縄に帰った今は、息子に食わせるわけにもいかず、仕方ない、いつか食べることになるのだろうが、やはり、一度は店で食べてから、作るべきだったと思う。

果たして、これがルーロー飯というしろものなのかもわからないが、うまいことはうまい。

だから、これはルーロー飯でいいのだが、確実に、腹にもたれる。小丼がせいぜいなのだ。バラ肉500グラムは、多すぎる。

×  ×  ×

「なぜ君は総理大臣になれないのか」を観た、

17年間撮り続けたドキュメンタリー。当たり前が当たり前でなくなった時代に、小川淳也の生き方は、清々しい。腹にもたれない映画を久しぶりに観た。

オリパラの記録映画はどうなるのか?

沢木耕太郎は、東京五輪を果たして書くのか?

どちらかというと、後者のほうに、ボクは、興味がある。

長年、オリンピックと対峙してきた沢木さんが、コロナ禍のしかも緊急事態宣言中、毎日たくさんの死者が出ている中で強行した、オリパラ。国民の70パーセントが反対する中、開催した、オリパラ。それにたいして、どのような文章を書くのか、ボクは想像ができない。

2021年9月11日土曜日

武田砂鉄と大竹まことから派生するもの

 

きっかけはなんだったかよくわからないのだが、武田砂鉄という人の名前を知った。

そのひとのラジオを聞いていて、次々と、新しい人たちの名前や、仕事、主張を知るようになった。若い人が多いが、大竹まことさんのように、古からの芸人(なのか、役者なのか)もいる。

かれがやってる文化放送の番組は、僕の愛聴番組。毎日というわけではないが、番組が、昼から居酒屋状態で、大竹さんがマスターで、アシスタントの女性や、ゲストの人たちが、居酒屋の客のようで、わいわい言いたいことを言っている。武田さんのほかに、青木理さんや、金子勝さん、宮台真治さん、森永卓郎さんなんも日替わりのゲストで出ていて、このコーナーは、政治ネタが多く、大竹さんの意見もちらちらと出てくる。

とにかく雑談がメインの番組で、音楽も、かつて聴いた曲が出てきて、新宿三丁目の店にいるような気になる。僕は、止まり木の隅で、一杯やりながら、常連さんの会話に耳を澄ませてる。これが心地いい。

今時、居酒屋の片隅で酒を飲みながら、人の話に耳を澄ますことなんてないが、このラジオを聴いていると、そんな気分にさせられる。

なるほど、ラジオは、今や、居酒屋状態で、テレビのように固くるっしくなく、言いたいことを言って番組が成り立っているのかと、ほかの番組もいろいろと聴いてみたのだが、大竹さんの番組以外は、堅苦しいものか、バラエティーものかで、いかにこの番組が特殊かが、理解できる。

先日は、桐野夏生さんが出ていて、新作の小説の紹介がてら、ペンクラブの会長になったことなどを話していたが、桐野さんの話を聴くなんて、初めてのことで、なんだかワクワクしてしまった。

目がどうも見えにくくなって、心してかからないと本一冊が読めなくなっている。なので、もっぱらユーチューブやネットフリックスかAmazonになるのだが、そこにラジオが加わって、たまに見るテレビとで、情報収集は、一杯。これ以上はいらない。週刊文春と文芸春秋は、買ってはいるが、ほとんど見出しだけで、本文は読まない。カンパの積りでかっているに過ぎない。

 

武田砂鉄さんは、今は売れっ子のようで、あちこちのラジオ番組に出ている。本もたくさん書いていて、これからもっと発言力を持つ人。それでいて、昼のラジオ番組のパーソナリティーの代打にでても、うまくこなしている。偏屈さが売り物のようだが、なかなかどうして、粘り強い調査力としつこさが、この人の持ち味で、いったいどこにこれだけの情報収集力が隠れているのだろうと思うと空恐ろしくなる。

 

もうひとり、「職業政治家 小沢一郎」を書いた、佐藤章さんが、注目される。

前記の著作、小沢一郎のことを書かけた本だと思ったら、とんでもない。日本の政治についての、多角的で鋭利な論評になっていて、読みごたえは抜群だ。確かにね小沢一郎とのインタビューは載っているが、小沢ひとりにとどまらず、日本の政治家についての深い洞察があり、まだ、小沢の政治対する真摯な姿勢が、書かれている。

 

この本がきっかけなのかどうかはわからないが、ユーチューブの「一月万冊」という番組に今年から出演している。「一月万冊」は、読書家の清水有高という人がやっている番組で、最近は政治ネタが多いようだが、清水のプロデューサー的な能力が、固く、暗く、かなり粘着質な佐藤の話を観る者に、わかりやすく、また、娯楽性を加味したものにして、送り出している。清水は、この佐藤との番組の他に、「一月万冊」を毎日4本ほどを発信している。もの凄いエネルギーだ。しかも一本一本は、60分弱という長尺だ。

佐藤の他には、本間龍や、安富歩がいる。

 

テレビとは、別の世界で活躍する人たちが、コロナ禍のなかで、活躍している。

彼らの歯に衣着せぬ喋りには、ときに、精神の潤滑剤になる。怒りや憤りが支配かる現在、まずは、大竹まことのゴールデンラジオや、武田砂鉄のアシタノカレッジ金曜は、日々の清涼剤になることは確かだ。

 

10月19日に思うこと、

  総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。 議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。 ...