2016年1月4日月曜日

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトルだが、あまり観たいなと思うタイトルに巡り合わない。
似たようなタイトルばかりで、新鮮味がない。
『百円の恋』なんて、いいタイトルだなあと思ったし、内容も、かつてのアメリカB級映画の匂いが立ち込めていて、観たいなとは思ったが、沢山の人が詰めかけてると聞いて、何だか、嫌になった。
お客さんが沢山来れば、それは映画としては成功なんだけど、このテの映画は、話題にもならないからいいのであって、『ロッキー』と『ロンゲスト・ヤード』の違いみたいなもんで、作り手は、『ロッキー』を狙うんだろうが、『ロンゲスト・ヤード』のほうを期待してしまう。
今の、この時代だから。浮かばれない映画にシンパシイを感じる。
だから、そのうち観ようとは思っているが、まだ観てない。

最近思うが、ボクのシンパシイの感じ方と、一般のお客さんのシンパシイの感じ方の違いというのは、完全にかい離しているようで、こんなことを書くと、来る仕事も来なくなるので、書かないほうがいいのだけれども、地味が、美徳の時代は、終わったのかも知れないとも思う。
地味が、売れない、当たらないは、当たり前だが、だからと言って、作られないというのは、ちょっと変だ。
作り手に、そういう人がいなくなってしまった。バカがいない。
そんな風にも思うのだ。

作り手も役者も、みんな自信を持っていて、迷いがない。
どうして、こんなに堂々と作れるんだろうかと、つい思ってしまう。
タイトルからして、自信満々が伺える。
そういうのは、ハナから観ない。
もちろん、映画は決めていくものだし、決めなきゃ、映画は永遠に作ることができないのだが、その前に当然あるはずの、長い迷いの時期が、ない。
だから、薄っぺらで、話だけで、映画が終始する。
それをまた、良しとする輩が多いから困ったことになる。

霞を食って生きてるわけじゃないし、養わせなきゃならない家族もある。
迷ってばかりいて、ああだこうだと御託を並べても、飯がテーブルに並ぶわけじゃない。
稼がなきゃいけないから、稼げる映画を作ろうとする。
それは、別にいいし、ボクも、嫌いではないが、ちょっと待てよ、というのが欲しい。
そのちょっと待てよがないと、まずいのだ。
わからないかも知れないが、わかる人もいるはずだ。
ちょっと待てよ。
この感覚だ。
米櫃が空になるまで待てるかという感覚。
空になっても、待てるかという感覚。
ハナから、米櫃の心配などしていないのもいるが、そんなのは論外なのだが、やはり、ギリギリがいい。
ギリギリでの、選択がいい。

そんなわけで、今年は、ギリギリだ。
ギリギリでも、迷ってやろうと思う。
ま、抱負といえば、これぐらいか?

毎年、一本の映画を作る。
それが、ボクの長年の決意だった。
それが長編を、四年も作っていない。
そろそろだが、そんなに簡単には、腰を上げない。
第一、体力がなくなって、なかなか腰が上がらない。
もったいぶってるわけじゃない。
迷ってるのだ。
迷い続けているのだ。
楽しんでるわけじゃない。もがき苦しんでいる。
でも、まだ迷う。
ギリギリまで、迷いたい。
でないと、自分で、自分が許せない。そんな気がする。

2016/01/04








2015年12月9日水曜日

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だったりするから、それだったら、小説を読んでいたほうがいいし、映画にするのは、ベストセラーだからであって、その小説が、映像的だからというわけではないのだから、映画用に書き換えなくてはならない。もう、その行為自体に、懐疑的にならざるを得ない。
別に、作品に対するリスペクトがあるわけではない。
ただ、金にしたくて作っているだけなのか、金が出るから、作っているだけなのか?
よくぞ、これを映画に作り直したなんて、絶賛する人もいるが、元の小説のほうがはるかに良いことのほうが多い。

しかし、TRスミスの小説は違っていたし、続けて読んだ、ルメートルの小説も違っていた。
あるものは、シナリオをそのまま、小説にしたのではないかと思うことすらあった。
それの何がいけないのか?
そんな提示をしているように思えた。
途端、今まで読んだ小説が色あせていく思いがした。
見事な場面転換は、見事な章転換となる。
目に見えるような、キャラクター作り。
緻密さと同時に、書くことの喜びを味わっているだろう、即興的な筆致。
何もかも、新しい。
ひねりが利いている。

時代は、ようやく、このように、映像と深く結びついた小説を受け入れるようになったのだ。
これはうれしいことだが、ちょっと悔しい気もしないではない。
40年前には、おそらくあり得なかったことだろうから。
小説は、映画に屈してはならない。
映画化できない小説。これが、大事であり、尊いとされてきたからだ。
その考えは、日本だけにとどまらず、フランスやアメリカにもあったのではないか?
オリジナリティーがあるのだから、ノベライズとも違う。
小説の中だけで、完結しうる映像的作品。
それが、多数の読者を獲得したのだ。
市民権を得たのだ。
ボクはまだ、このテの書き手を、この二人しか知らないが、これから無数に出てくるに違いない。
それも、同時多発的に全世界から。
ボクも、久しぶりに、読書を期待をもって取り組むことが出来そうだ。
何せ、人物描写は小説のほうが優れているのだから。
時間を気にせず、書き込むことが出来るのだから。

2016年は、そういう意味でも、期待の年だ。
旧態依然とした小説というジャンルから、新しい作法が生まれ、認められ、ヒットする。
そういう時代がくるのかも知れない。
それは、また、映画でも同様のことが言えるだろう。
では、映画は、これからどこへ行くのだろう?
それは、映画の作り手、ひとりひとりが、問い詰めていく課題だろう。
少なくとも、ボクが書くことではない。

2015年11月18日水曜日

夜中に、起きて、

書棚には、たくさんの本がある。
この部屋にあるのは、翻訳もの。
居間に行けば、DVDと映画関係の本と、日本の単行本。
廊下と寝室には、文庫本。
読んでないものもあれば、読んだものもある。
DVDは、ほとんど観てるが、観てないものもあるし、忘れてしまったのもある。

そう、忘れてしまってるものばかりだ。
忘れてるのに、そこにある。
中身は忘れているのに、背表紙のタイトルだけが、いつまでも記憶に残っている。
じっと見てると、読んだ時のことや、途中で嫌気がさして、読まなくなってしまった、その時のことを思い出したりする。
手に取って、読み返してみても、再読はしない。
数ページ読むだけで、机の隅に置いておく。
×   ×   ×
夜中に目が覚めてしまい、さあて、何をしようかと考える。
いつもそうだ。
最近は、いつも、何しようかと考えて、ただ、ぼうっとしているだけで終わってしまう。

ぼうっとしているのは、もともと嫌いなんだけど、最近はぼうっとしているときが、なぜか、愛しい。
いろんなことを思い出すからだが、映画を作ってる時のことを思い出すことはない。
子供時代のことが多い。
×   ×   ×
何か、書いているときが嫌だ。
あれだけ書くことが好きだったのに、今は、できれば、離れていたい。
考えが煮詰まってくる。そんな時が嫌なのだ。
逃げ出したくなる。
だからあまり書くことは考えないようにしているが、こんな風に、ブログを書いているわけだから、なんとも、おかしなことだ。
×   ×   ×
週に三回、クリニックに通っている。
通っているといっても、奥さんが話してくれて、迎えが来るようになっている。だから、時間になったら出ればいいのだが、どうも勤め人に舞い戻ったようで、嫌だ。大体、迎えの車というのも、気分のいいものではない。
「勝手にいくから!」
と、運転手さんに言って、バスで行ったこともあるが、次第にそれも億劫になり、最近は、迎えの車におとなしく乗り込む。

車は、僕を運んで、クリニックではなく、カフェの前で止まる。
まだ八時前。そんな時間にクリニックは、開いてはいないから、カフェで時間潰しに本を読む。
まるで中学の読書の時間みたいだが、これがいい。
コーヒーにミルクと砂糖を少しだけ入れて飲む。
たばこを三本吸う。
場所が変わろうと、何が変わろうと、このような暮らしは、続けなければならない。
もちろん、カフェで一服は、どこでもできるものじゃないから、いきなり、クリニックということになりかねないのだが。
×   ×   ×
今年撮ろうと思っていた企画が、役者さんの都合で、来年となってしまい、一年丸々、空いてしまった。
いつもなら、新しい企画を考えて、それを先に撮ってしまうのだが、どうも、それはしないほうがいいような気がしてきて、自制している。
毎年一本映画を作ってきたが、何年か前から、停滞している。
とてもじゃないが、作れる体調ではなくなってしまった。
今は回復しているが、つい何か月前までは、夢遊病者のように、ふらふらと、無意識に、あたりを徘徊していた。高血圧が原因のようだが、他にも沢山、病を抱えている。
まあ、そんなことは、いい。
どうでもいいことだ。
これを読む人にとっては、うっとおしいだけだろう。

今、不思議な本を読んでいる。
「インド夜想曲」というタイトルがついている。
ヴェンダースの映画を思い出す。
いや、それ以上か?
とにかく、不思議だ。
文体も、内容も。
読み終えたら、感想めいたものをここに書くつもりだが、うまくは書けないだろう。
そんな気がする。















2015年11月17日火曜日

(2015/11/17加筆)

2015/05/31

なんとも、まつたりとした時間が、流れている。
普通のひとは、それこそ、待ちに待った日曜日なんだろうけど、ボクの場合は、少し違い、翌日の月曜がまだ、休みなので、日曜は、貴重だが、おまけのような日。
映画に行こうにも、混んでるだろうなと言う思いが先にたってしまい、行かないことが多いし、夕方になると、いつの間にか、酒になっていて、もう、読書する気分にはなれない。
近くに、フランスみたいに、気軽に入れるカフェがないから、食事を済ませると、もう、散歩に出るぐらいしかなくなってしまう。
何か、書くことがあれば、そんなことは、全部吹き飛んでしまうが、まだ書く段階ではない場合、まんじりともせずに、机に向っているほかはない。
ボウーっとした頭で、唸ったりして。

新作映画、少し進んだ。
少しと言っても、大変なことで、ボクの場合は、役者さんありきなので、その役者さんが、演ってくれると言った以上は、やらなくてはならない。
少し、プレッシャーを感じているが、今更、と言う気もしなくはない。
何をしてもプレッシャーは、感じるものだし、プレッシャーがない生活なんて、ボクには、必要ないような気もする。

旅の番組とか、旅に関する本や、映画が好きだ。
だらだらと、旅人が、名所旧跡でないところを、食べたり飲んだりしている所がたまなくいい。
町の風景も、映像となると、いつまでも、見て居たくなる。


2015/06/12

そう言えば、最近、大力&三浦コンビの新作を、観せてもらい、何か、たまらない気分にさせられた。
たまらない気分と言うのは、無性に、旅に出たくなる気分だ。
ふらっと、この映画のふたりのように、(この映画の場合は国内だが)外国を旅したい。
行くなら、北欧かな。
ガラパゴスなんてのもいいなとか。
でも、多分、もうボクは、身体的に、行くことはないのだろうなと、哀しい現実と、向き合う。
行けるわけがないのだと。

いつか大力と三浦君が、海外に撮影しに行ったらどうなるのかを想像した。
吉林当たりでまごまごする二人が観たい。


東京に、57年間暮らしていた。
途中、数か月、フランスに居た事はあるが、それ以外は、東京だ。
2011年の1月、突然思いついて、大阪に引っ越した。
子供は、転校生となった。
かなり辛い思いをしたんだろうが、人懐こい性格が幸いして、彼は、毎日を過ごしていた。
ボクはと言えば、月に一度の病院通いで、東京へと車を走らせた。
何を好き好んでか、550キロの道のりを、往復するのだ。
病院は、半日で済む。
事務所に寝泊まりしたり、ホテルに泊まったりして、何日間かを過ごし、また、大阪に帰る。
月に一度のそんな旅が、ボクの唯一の愉しみでもあり、息抜きだった。

いよいよ、ボクの病気が深刻となり、大阪の病院に転院した。
それから、しばらくして、入院、手術。
たいした手術ではなかったが、入院するのが通例となっていたらしい。
その入院は、三日ほどで終わったが、それから半年後、再び、入院。今度は、一週間ばかりで、ある処置をすることになった。
その処置は、今も続いていて、週に三回は、処置をしに、クリニックに通っている。
大阪から、東京に舞い戻って来たのは、生まれ育った場所で、もう一度、生活をしてみたいと言う気持ちが、募ったからだが、東京生まれのボクには、東京以外の場所は、馴染めないと言う事が根本にあったからだろう。
でも、こう書いているときにも、また、どこか別の場所で暮らしたいなと思うんだから、気まぐれだ。

今のボクは、至って元気で、
「大体、こういう状態になると、寿命は、10年ですよね」
と力なく医者に訊いた時に、
「まあ、そうです」
と返ってきた医者の言葉を、ときどき思い出す程度で、気にはならなくなってきた。
あれ以来、もう何年の歳月が過ぎていったか。
残り、7,8年というのが、ちょうどいいかなと思う。
思うには思うが、ままならないのが人生だ。

あれだけ勤め人の生活を嫌っていたボクが、早起きになり、規則正しい生活を送っている。
クリニックに行くためだ。
罰が当たったなとは思わない。
今は、息子が成人するまで、死ぬないなとおもうだけだ。
それまで、ボクは何をしようかなと思うが、映画しか無いことはとうにわかってる。





無題

昨夜ようやく、『6才のボクが大人になるまで。』を観た。
ずっと、気になっていた映画だけど、なかなか観る機会がなかった。
それは、この映画に限ったことではないのだけれども、観たいとは思うが、なかなかタイミングが合わない。
「絶対にこれは観なくては!」
 と思ったものでも、観ないことがある。
いや、そう思った映画に限って、なかなか見ない。
理由は、特にない。
好きな監督、好きな役者、好きな音楽。
それらが全部そろっていても、観ない。
観るタイミングが合わないというよりも、時間をおくと、いろんなことを考えるようになって、思考の方が先にいってしまい、観ても、
「どうせたいした映画じゃないんじゃないか」
と思えるようになっていく。予告を簡単にみられるというのも、ある。
予告と言っても、今の予告は、抜粋を再編集しただけのもので、映画のイメージをあおるようなものはない。

予告

事実、そういう思いを随分とした。
期待していた映画に、ずいぶん後になって観て、みなければ良かったと思うことが多かったことだからだ。

映画を作っていると、いわゆる一般観客とは、自然と違う視点で映画を観ていることがある。
一般の人のようには見られない。
撮っている人の、現場のカメラとか、照明とか、録音のセッティングのことを考えてしまう。
それで、それに、目新しいことがなかったりすると、途端にその映画に興味を失っていく。

それは、たまたま観た映画にも言えることだが、たまたま観た映画と言うのは、初めからあまり興味がなかった映画が多いので、そういうことにハナから興味を持たなかったので、そんな技術的なことも、気にならないでみるので、まだショックは少なく、
「どうせ、この程度だろう」
という、程度をクリアしてさえすれば、まあ、最後までは観る。

アクションものというか、アクションを売りにしている映画は、あえて、劇場では見ない。
テレビ画面のほうが客観的になれるからだ。その方が、シナリオとか、演出のレベルが良くわかる。
こけおどしの作品は、テレビサイズの画面では、5分ともたない。
少なくともボクは。

忍者物で、大層評判になり、シリーズにまでなった映画だって同じことだ。5分でやめた。
それは、仕方のないことだ。
映画は、成功しただろうが、成功した映画だからと言って、ボクの思ってるリズムと違うものは、見続けることができない。
何で、延々とアクションシーンが続いているのだ!と、イライラしてくる。
「××人の刺客」なんて映画があったが、昔のでさえ、つまらなかったのに、そのリメイクなんて、もってのほかだ。
新たな趣向があるのなら別だが、話が同じなのだから、観るまでもない。
大体、チャンバラなていうのは、一瞬で終わるからいいのであって、いつまで、そして何人も次から次へと殺していくのは、疲れるだけだし、リアリティーだってない。
それでも、そういうものが好きだという人もいるのだから、まあ、そういう人に任せて、ボクは、5分で退散だ。
映画館だったら、椅子を蹴って退散するし、DVDなら、盤を取り出して、投げつける。
「なんだこんもの!」
と、怒鳴ることもある。
もちろん、誰もいないところでね。
そんなことをするのは、滅多にないが、年に一、二度は、そうすることもある。
自分の作品は、もちろん、棚においてだけどね。そうする人もいるかもしれないけど。
批判を浴びたり受けたりするのはことだから、意見としては聞くけど、大体が、見間違ってるか、初めからあらさがしをしているものばかりだ。

ところで、昨日見た『6才のボクが大人になるまで。』なのだが、2時間で終わるだろうと思ったら、一向に終わらないので、少しあせったが、その甲斐あって、なかなかの作品だと感心した。
こういう映画は、稀有の存在だ。
だから、また繰り返し見ることにしよう。

そて、そろそろ、新作だが、何を見ていいのかよくわからない。
感動まではしなくていいか、どこか、観てよかっったと言う気持ちになりたい。
作り手という立場を忘れてしまうほどに、のめりこむような作品。

皆さんのおすすめはなんですか?




http://6sainoboku.jp/

最前線物語を観て、

最前線物語と言えば、サミュエル・フラーの代表作だが、恥ずかしながら、今まで、観たことがなかった。
若いころは、戦争物が大好きで、流行っていたこともあり、反戦、プロパガンダどちらになびいた作品でも、なんでも観ていたのだが、自然と、B級と言われるものだけに絞られて行って、大作には、あまり関心が向かなくなっていた。
日本の場合は、大作がほとんどなので、(それも、決まって終戦のころの話か、真珠湾攻撃、あるいは、山本五十六)見るには見るが、いつも同じようなもので、指揮官らの苦悩に、若い将校らの恋愛が絡む程度。差別化が難しい。

いはゆる最前線で、敵と戦うというのは、なかなかない。
あっても、ほんのわずかなもので、すぐに指揮官の話に行ってしまい、またもや苦悩。
苦悩ばかりの戦争。

アメリカ映画は、小隊の軍曹なんかが、主人公のものも多く、どこかの原っぱや森の中で撮影しているようで、戦車や大砲や銃なのど装飾はあるが、あとは火薬やスモークなんかを焚いて、短時間に、高率よくとっているものが多い。
「ジョニーは戦場へ行った」なんて映画も観たが、どうもダメだった。当時は、反戦の匂いのするものに、どこか拒絶反応があったのだろう。
戦闘シーンがないと満足しなかったんじゃないか?
当時の話だけど。

当時、アクション映画と言えば、新宿のローヤルと決まっているところがあり、二本立てとかで、戦争物を観て、小汚い服を着て小銃を肩にする前線の兵士に憧れたものだ。
死と隣り合わせだというのに、そこに参加したいとも思った。
不思議なもので、今は、そんな気持ちには、毛頭なれないのだが、当時は、劇場から出て来ると、糞みたいに平和なだけのこの国を呪ったりした。
活力がみなぎっていたのか、何なのかよくわからないが。

前にも書いたが、ボクのお気に入りは、「特攻大作戦」や「レマゲン鉄橋」だった。「遠すぎた橋」も好きだったが、「戦場にかける橋」は、文学過ぎてダメだった。
そんなこともあったのだろう。
「最前線物語」は、観る機会を失った。
失ったというより、タイトルは知っていても、どこでやってるのか、全然わからなかったのだ。

サミュエルフラーの名前ばかりは、耳に入ってくるが、彼を観たのは、ヴェンダースの映画だったし、彼が撮った映画は、何か一本ぐらいは観たのだろうが、あまり印象に残っていない。
何年か前に、「東京暗黒街・竹の家」というのを観たが、東京を舞台に、まあ凄いことをやっている。
改めて、これがサミュエルフラーか! と思ったが、とにかくアクションで見せる演出は、並大抵の才能ではない。

アクションで見せる監督は、ボクにとって、神様だ。
アクションと気の利いたセリフがあれば、満足して、劇場を出られる。
かつてあった、新宿の喫茶店「トップス」でコーヒーを一杯。
バッグからノートを取り出して、映画の影響からか、思いつきのシナリオを書いたりした。

しかし、書くシナリオは、そんな戦争物とは真逆のもので、のんべんだらりとした日常を書き留めてるだけの、日記のようなものだ。
なぜかはわからないが、日本で、荒唐無稽な戦争物を書こうなんて気にはならなかったし、あれはアメリカ映画だけがなしうることのように思っていた。

「最前線物語」を観ていて、なぜ、もっと早くこの映画を観なかったのだろうと、後悔した。
とにかく、素晴らしい仕上がりだ。
主人公は、例によって鬼軍曹のリー・マービンなのだが、ナレーションが入り、そのナレーションを語っているのは、若い小説家志望の男で、軍曹率いる小隊の一員。
この構成というか、シナリオが見事で、ヨーロッパのありとあらゆる地に派遣され、それこそ最前線で、働かされる。

ぐだぐた話を書くのは本意ではないのでこの辺でやめるが、日本の戦争映画でも、この手の話ができるんじゃないかと思う。
敗戦ばかりに目を向けず、同僚の死とか、敵の歩兵との交流とか。
暗に反戦をほのめかすだけの、戦争映画。
いずれにしても、胸のすくような戦争映画がみたいものだ、















2015年9月14日月曜日

2015/09/14

今まで、自分のことを、(特に子供のころのことを)突き詰めて考えたことはなかった。
犯罪者となり、監獄に入り、自分自身と向き合う。
そんな経験がなかったからか、とにかく、必死で、自分と向き合うこともなかった。
今、かりそめだが、そんな自分と絶えず向き合っている。
内臓の具合が悪く、放っておいたら死ぬといわれて、人工の臓器を使うようになり、それによって、サラリーマンのように、毎日、クリニック通いを余儀なくされ、数時間ベッドから離れられない状態になった。そんな状況では、いやがうえにも、自分を見つめるようになる。犯罪者が懲役の中で過ごすのとは、かなり違うが、ベッドで過ごす時間そのものは、檻の中にいるとのと、さして変わらないのではないかと思える。
抜け出すことができないという一点においても。
しかし、それでも、子供のころのことを思い出すのは、いい時のことばかりで、辛かったことなどは、思い出そうとしても、それを拒む何かが働いていて、つきつめて考えるようなことはなかった。
拒否している自分を感じた。
今でいう虐待だが、身体的虐待というよりも心理的虐待の方が大きかったのではないか。そんな気がする。
それでも、60年以上生きてきたのだから、もうそれは克服したはずだ。今更、書く必要なんてない。
そう思うし、それは、ずっと自分の中だけにとどめて置くことだと思っていた。
数日前のことだ。
「黒子のバスケ」脅迫事件というのが、ネットを見ていたら、目に留まった。
「黒子のバスケ」って何だろう? 全く知らない言葉だった。調べると、そんなマンガかあるのだという。かなり評判にもなり、キャラクターグッズなんかも販売されていることを知った。
では、「黒子のバスケ」脅迫事件というのは?
これも、確か二年ぐらい前か、テレビや新聞で、報道されていたことを思い出した。「グリコ森永事件」に似たような、根拠不明な脅迫事件だったような気がする。
これもまた、それほど僕の興味を誘わなかった。思い出してみても、あまり記憶にはなかった。そんな事件があり、いつの間にか解決したんだろうと思っていた。

もちろん、実際、その事件は解決していた。
渡邊博史と言う男が犯人で、逮捕時、刑事に「負けました」と笑ったというらしいことが、新聞に載っていたらしい。もとよりあまり興味のなかった僕は、それすら知らなかった。
二年前と言えば、僕にもいろいろあり、社会で起きていることに目を通していることができずにいたからだ。
自分のことで精一杯の時には、なかなか社会問題には、目が向かない。少し、余裕がなくては無理な話だ。
タイミングがずれていたのだ。
だからといって、そのころ僕がこの事件に興味を持っていたとしても、「また人騒がせな奴が出てきたものだ」ぐらいにしか思わず、素通りしていたに違いないのだが。

最近になって、ネットを検索、そのことに触れた文章が目に留まり、はじめて事件のことを知った。
いや、事件のことを知る前に、彼の書いた、最終意見陳述と、それへの文を読んで、何か、得も言われぬおぞましさと同時に、自分の中で、共感をに似た感情があるのに、気づかされた。
この感情は一体何なのだろう。

安保反対デモは、60年代のころこそ、あまり知らないが、70年代の時には、多少興味を持った。それでも中学生だった僕に、何ができるわけでもないと思った。親たちから、バカ呼ばわりされていたデモに参加しようなどとは、思いもしなかった。
そして今、戦後70年。法案が強硬採決され、憲法解釈で、集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。もちろんこのことに興味のない人はいないだろうが、それを体を張って阻止しようとは思わないし、考えもしない。デモにも、参加したことはない。
それは、ひとえに集団行動があまり好きではないということからきているのだが、(実際、選挙も集団行動と言えるので、僕は、消極的だ)それでも日本が奈落の底に突き落とされ、二度と這い上がれなくなるのを、ただ指を加えてみているのかと言えば、そうはしたくない。そうはしたくないが、方法が見つからない。見つからないまま、知らないうちに、困った法案が次々に決まっていく。

「黒子のバスケ」脅迫事件は、そんな政治のこととは無関係な事件で、いわゆる愉快犯の犯行だと思っていた。事実、彼が出版した、「生きる屍の結末」の中の、事件のあらましを読んでいると、愉快犯という言葉が、頭をよぎった。彼の書いた最終意見陳述とは、かけはなれた行動であり、やはり読むんじゃなかったという気持にさせられた。
しかし、次の章の生い立ちを読みながら、奇妙な思いにとらわれていった。
そこにかかれていることと、僕が経験したこととの間に、それほどの差異がなかったということだ。
そこにあたかも自分がいるかのような錯覚に陥ったこともある。
そして、再び、最終意見陳述を読んだ。
そこに書かれている造語のような言葉に、ひとつひとつ立ち止まり、最初にネットで読んだ時と同様の、戸惑いと共感に僕は、衝撃を受けた。

「無知の涙」は、連続殺人犯永山則夫の獄中で書かれた手記を出版したものだが、僕は、この本を20代前半で読んだが、今では、そこに書かれていたことをほとんど思い出すことはできない。
読んでいる時でさえ、難解なその文に辟易したぐらいだから、覚えていないのが当然だろう。
しかし、渡邊博史のこの手記には、それほど難解なところはなかった。
ないどころが、言葉のひとつひとつが胸に突き刺さり、自分を打ちのめしていくのだ。
これは、何だろう? 何が僕の中で起こったのだろう?
驚きは、この本を閉じるまで続いた。

読み方によれば、これは、犯罪者の身勝手な言い訳に過ぎないのかもしれない。
しかし、確かに、この文章には、惹きつけるものがある。
偽悪的であり、露悪的でもある。
しかし、魅力があり、共感がある。
今、この本を手にしながら、その感想めいたものを書きながらも、まだ、この文を書いている衝動がどこから来たのかわからないでいる。


香山リカさんが、この本の解説で、最後に、感謝の言葉を述べているが、それに近いものが僕にもあることを、僕は、まだはっきりとは、認識できないでいる。
僕にとって、この本は悪書であり、良書だ。
少なくとも、今、読むべき本であることは確かなようだ、




10月19日に思うこと、

  総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。 議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。 ...