2月16日、淡島さんが亡くなった。
いつかこういう日が来るだろうとは思っていたが、こんなに早く来るとは思ってもいなかった。
膵臓ガンだと言う。
それも、一月に一度、危篤状態があり、持ち直したんだと言う。
予感は、あった。
と言うのも、20年来年賀状のやりとりをしていたにも関わらず、今年の年賀状は、ついに来ずじまいだったからだ。
あれだけ几帳面で、隙のないひとが、そんなことをするはずがない。
「ひょっとして、ご病気なのか」
そんな思いが過った。
でも、直ぐに打ち消した。
ボクは去年の一月に転居した。
なのに転居の挨拶は、一切しなかった。
怠けていたのだ。
そのことがあって、淡島さんからの年賀状は来ないんだと思っていたのだ。
でも、ボクは年末に出したので、しばらくしたら、返って来るのではないか? そう思っていた。
しかし、それもなかった。
ボクが淡島さんと初めて会ったのは、1993年か92年。どちらだか判らないのだが、いずれにしてももうかれこれ20年近く前のことだ。
ボクは当時、シナリオライターで、年に1シリーズ、中部日本放送(CBC)の昼の帯ドラマを書いていた。
93年にOAされた番組「とびっきり青春」の主役に、淡島さんが起用されたのだ。
初めて会ったのが92年か93年か判らないのは、その番組の最初の顔合わせ、ホン読みがいつ行われたのか覚えていないからだ。
OAが93年の4月からだったとしたら、収録は、その年に入って早々に行われるはずだ。
そうなると企画書の作成は前年の92年の秋ごろとなり、企画が通って、脚本を書き始め、年末年始の休みも考えて、前年に顔合わせ、第一週のホン読みが行われるはずである。
となると92年の末ということになるが、これはボクの勘違いなのかも知れない。
OAは、7月からだったのかも知れないし、10月からだったのかも知れない。
いずれにしても、その番組の最初の顔合わせ、ホン読みが淡島さんにお目にかかった最初の日だった。
帯ドラマ。しかも、CBCが制作する昼の帯ドラマは、隔週で、ほぼ一週間、名古屋で撮影が行われていた。
スタッフはライターのボク以外は、名古屋在住の人が多いが、キャストのほとんどは東京に住んでいる。
だから半年近くの間、隔週で、名古屋でのホテル暮らしだ。
もちろん名古屋市内のロケもあるが、それはほんの一日か二日で、収録のほとんどはCBCの社屋にあるスタジオで行われた。
ほとんど、籠っての撮影と言うことになる。
自然、連帯感がうまれた。
キャスト同志、親しくなることもあれば、スタッフとの親睦も増す。
しかし、ボクは、「とびっきり青春」の台本執筆ではある冒険をした。
それは、完全なスタジオドラマにしようと言うことだった。
タイトルバックの撮影以外、基本ロケは無くしたのだ。
限られたスタジオのセットだけで、番組を作ろうと思ったのだ。
しかし、それは出演者の方々にあまりに大きな負担になったようだ。
芝居を極力ワンシーンの中に書き込んでいくと、自然と台詞の分量が多くなる。
それにプラスして、週5話のその台本の、1話だけは、多くて3シーン。少ないときは、1シーンにしようと試みたのだ。
膨大に膨れ上がった台詞と、長いシーン。
淡島さんを始め、ドラマに出演した東千代助さん、高品格さんら出演者は、すっかり音をあげてしまい、撮影が終わっても、出歩く暇もないまま、ホテルに戻り、翌日の収録の台本の台詞覚えにやっきになっていた。
それは、淡島さんも同様だった。
スタジオに入ると、そんなことはおくびにも出さない淡島さんだったが、きっと眠る暇もなかったことだろう。
番組が週ごとに完成し、VHSがボクのところに送られて来た。
見ていて、呆然とした。
ボクは、何てことをしたんだと、猛省した。凄まじいほどの役者さんたちの熱演。
番組の完成度は高かったが、その分、役者さんたちの負担は、大きすぎるほど大きかったのだ。
その番組が終わって、直ぐに、再び、CBCの仕事をした。
日曜九時の東芝日曜劇場だ。
しかも、単発ドラマとしての日曜劇場、最後の番組を担当することになった。
主役は、淡島さん。そして、相手役は、芦田伸介さんと長塚京三さん。
ボクは、淡島さんを「女神」に仕立て、「女神がボクに微笑んで」と言うタイトルにした。
ほとんどのシーンは、芦田さんと長塚さん演じる親子のセリフ劇。
ワンセットの中で展開される。
そして、そこに挿入される、イメージ映像。
そして始まった長塚さんの旅は、高原の老人施設へと向い、そこで痴呆老人となった母親の淡島さんと再会する。
しかし、母親は、息子との再会を果たしても、息子の顔を覚えてはいない。
母親の恋した男。父親でもない男の名を、呼ぶのだ。
ドラマは、そこで終わる。
父も息子も、女に捨てられた哀れな男なのだ。
そんなドラマを書いた。
ボクは、この二つの仕事を通して、淡島千景さんと、年賀状のやりとりをするようになった。
何度か、手紙を書いたこともある。
その時は、決まって、毛筆の返信が来た。
それは今でも、ボクの宝として、大切に保管している。
何年か後に、NHKのドラマを書いた。
その時も、ゲストとして淡島さんに出演していただいた。
NHKのスタジオで淡島さんと再会したのだが、面と向うと、物怖じしてしまい、何も話せなかった。
ボクは副調整室で、淡島さんの芝居を見守っていた。
監督デビューを果たし、二度目カンヌ出品後、CMの仕事が入った。
それで、かねてからの念願だった、淡島さんに出演を依頼した。
淡島さんは快諾してくれて、撮影に入った。
たった半日の現場だったが、ボクのぎこちない演出にも、「はい」「はい」と二つ返事で、答えてくれた。
「映画をやろうよ。CMの仕事なんて良いからさ!」
と、長年共にしてきたマネージャーの垣内さんが、ボクに言った。
それからだった。
映画のシナリオを書くたびに、淡島さんに演じていただけるような役を書くことを心がけるようになった。
でも、なかなかうまくはいかなかった。
大女優の淡島さんにあてはまる役など、ちょっとやそっとのことでは思いつくはずもないのだ。
そうして、また何年もの時間が経って行った。
『春との旅』のシナリオの基になったアイデアを思い付いたのは、大阪でだった。
その頃、ボクは池田市建石町と言うところで借家暮らしをしていた。
ボクの奥さんが妊娠して、子供を産もうとしていたので、ボクは、住居を、奥さんの実家の近くに移し、一年ほどを、その借家で過ごすことにしたのだ。
『歩く、人』を製作し、作品がカンヌに出品され、その年の暮れに、公開された。
更にその年は、911の年でもあった。
老人とその孫のロードムービー。根底には、『東京物語』があった。
シナリオの第一稿は小津監督の映画世界をかなり意識したもので、ボクが得意としていた、短い台詞の連打と長台詞からなるものだった。
書きながら、温泉地で、宿の女将をしている老人の姉を出すことにした。
淡島さんを頭に浮かべた。
『晩春』の淡島さんが、歳とったイメージで、台詞を書いた。
書き上げて、ボクは、有頂天だった。
「やっとボクは、淡島さんに宛てた台本を書いたのだ!」
と狂喜乱舞した。
そして、その勢いで、プリントアウトした台本を、淡島さんに送った。
「いつか、お金が集まったら実現したい台本です。茂子役をぜひ、演ってください!」
と、書き添えて。
しかし、『春との旅』は、映画になるまでに、8年もの時間を要した。
仲代達矢さんの出演が決まると、企画の実現まで、一年ほどしか掛からなかった。
制作のゴーサインが出ると直ぐに、ボクは垣内さんに連絡をとった。
キャストでは仲代さんの次に、淡島さんを決めたのだ。
もちろん色んな人から、色んな女優さんの名前が出たが、全てボクは、打ち消した。
「茂子役は、淡島さんです! これはもう絶対です!」
と、断定した。
こうして、念願の自作の映画に、淡島さんがご出演いただくことになった。
現場は、役者同志、火花散るものだった。
でも、そのことを細かく書くつもりは、ない。
ボクは、監督として、仲代さんと淡島さんの演技を特等席で観ることが出来るのだ。
その喜びは、死ぬまで二度とは味わえぬものに違いない。
事実、もう二度と、実現したくても出来ない組み合わせとなってしまった。
ボクは、淡島さんが亡くなった時に、随分と色んな所からコメントを求められたが、それらには、何も答える気にはなれなかった。
葬儀にも参列しなかった。
淡島さんが現場で交わした仲代さんとの会話を思い出したからだ。
淡島さんは、ずっと親交を結んでいた森繁久弥さんの葬儀に、行かなかったそうだ。
「だって、悲しすぎるでしょ?」
淡島さんは、言っていた。
淡島さんが亡くなった日、ボクは、DVDで、『春との旅』を観た。
鳴子温泉の淡島さんと仲代さんのやりとりを何度も繰り返し観た。
そして、「すみません」と詫びた。
こんなことをブログに載せるのは、どうかと思うが、やはり、書かないではいられない自分がいる。
ボクは、一淡島ファンのまま、慕い続けていたいし、それを、短いコメントでは終わらせたくなったのです。だって、それじゃ、悲しすぎるんです。
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