2017年4月5日水曜日

2017/03/22

近ごろ、怠けている。
机に向かうのが、苦しい。
ペンを持つことも少ない。
これじゃ駄目だと思いつつ、毎日が、過ぎて行く。

先日、録画してあったテレビ番組を、続けて何本か観た。
自動的に録画されているものがほとんどで、意図したものではないので、ほとんどは、消してしまうのだけれども、これはいつか観てみようというものは、残している。
それらのうちから、何本かを観たのだが、どれも、面白い。
小野田寛郎さんのドキュメンタリーなどは、録画しておいて良かったと思った。
ずっと、小野田さんのことを考えていた時期があり、なんとか作品に出来ないかと思っていたが、どのような作りにしたらいいのか、答えが出なかった。
ボクの中では、ピーターオトゥールの『マーフィーの戦い』が、頭にあった。
モチーフはこれだと、思っていたが、その先がうまくいかない。
改めて、『マーフィーの戦い』を観たが、イメージにあったものとは、かなり違っていた。
こういうことは、本当によくあることだが、ここまで、頭の中にあったものと実際の映画が、かけ離れていたのは、珍しいケースだ。正直、がっかりした。
ボクは、もしかしたら、『マーフィーの戦い』は、小野田さんをモデルにして作ったのかと思っていた。
しかし、もちろんそれは違っていて、『マーフィーの戦い』は、小野田さんが救出される数年前に作られた映画で、ボクも、確かに、小野田さんのニュースが流れる何年か前に観た記憶がある。
小野田さんが『マーフィーの戦い』のモデルではなくて、『マーフィーの戦い』と似たようなことが、日本でも起こっていたと言うことなのだ。
第一、『マーフィーの戦い』には、原作がある。
おまけに、イギリスの商船が、ドイツのUボートに襲われて…といった具合に、物語は全くと言ってい良いほど、異なっている。
なのになぜ、この映画と小野田さんが重なったのか、わからない。
終戦となってもなお、たったとりの戦いを続けていたことなのか?
もちろん、それが大きく、ボクの意識の中にあったのだろうが、とんだ、見当違いをしたものだ。

それでも、ピーターイェーツの『マーフィーの戦い』が、ボクの中で、映画としての価値を失ったのかというと、そんなことはない。
名作だと思っている。
こういう異質な作品は、めったに作られることはないだろうし、これからも二度と作られることはないだろう。

テレビを観ていて、小野田さんら数人の生き残りの日本兵が、20数年にもわたって、終戦を知らず、占領地である海岸に、近くの住民が生活のために魚を獲りに、また、パパイヤの実を取りに来ただけで、襲撃し、何人もの死者を出したと言う事実。
ある時は、フィリピンの警察軍と銃撃戦となり、仲間がひとりまたひとりと倒れて行った事実。
終戦を告げるビラを撒こうが、親兄弟が呼びかけようが、信じられず、姿を現さなかった事実。
最終的に、小野田さんは、生き残った最後の部下をも失い、焦燥の中にいた。それでも、投降を拒んだ。
小野田さんと接触したのは、ひとりの若い冒険家だったと言う事実。
そこでようやく小野田さんは、投降することを決意し、フィリピン政府に引き渡された。

そこから始まる政治的駆け引き。
マルコス大統領の決断。
無罪放免となった小野田さんは、日本に帰国、戦友の墓参りを最優先にしたいといった小野田さんの希望を無視して、政府に引き回され、国民的英雄とまであがめたてられ、その後、日本にも居続けることが出来ず、かといって、様々な感情が交差するフィリピンに戻ることも出来ずに、ブラジルに移住し、牧場主となり、地域の人たちに貢献していく。

こんな人生が、あるのか! と思う。
いや、こんな人生が現実に、存在していたのだ。
そのことに驚嘆と、何か、自分ではなしえない生命力を感じる。
ボクなどは、ひと月も生き延びることはできなかったろう。

なぜだろう。
ボクは、小野田さんに昔から興味を感じる。
できれば、お話を聞きたかった。
映画にもしてみたかった。
それは、やはり「たったひとりの戦い」に興味があったからだ。
小野田さんを描くことは、ゲバラを描くことよりも価値のあることのように思える。
小野田さんは、2014年に亡くなった。
91歳だった。
終戦後30年間戦いづけた男。
興味は尽きない、





2017年3月12日日曜日

仲代達矢 讃、讃、讃!!

「海辺のリア」のプレス等にて、書いたステイトメントを、ここに転載します。







仲代達矢 讃、讃、讃!!





朗読劇「死の舞踏」の稽古中だったと思う。ボブ・ディランの歌に「オン・ザ・ロード・アゲイン」というのがある。同じタイトルを冠したロードムービーのシナリオを仲代さんに渡した。コピー台本である。
数日後、無名塾のSさんに仲代さんの感触を訊いた。
「認知症の話なんだよなあ」と仲代さんが仰っていたとのこと。そのニュアンスは、照れ臭さと困惑が一体となったものだった。(認知症の役は、凄く難しいと後に仲代さんは、言っていた)そんな仲代さんの背中を押したのは、Sさんだった。「こういう病気を抱えている家族は沢山いる。共感を得ると思う! 演ってみたらどうですか?」
と。
『海辺のリア』はこうして船出した。
仲代さんとの三度目の作品。
仲代達矢と言う稀有の役者を丸裸にしてみたいという思いもあった。それが無謀な試みであることも判っていた。それでも、今ボクの出来ることは、このシナリオを現実化する以外にはないと確信した。数十回の改訂の末、『海辺のリア』と改題し、印刷台本とした。仲代さんに連絡し、正式に出演の了解をとった。後は、資金集めだ。幸い、日本映画放送の宮川さん、そして、社長の杉田さんがのってくれた。
無謀な試みに、無謀にも賛同してくれる人たちが集まり、『海辺のリア』は撮影に突入した。
今の日本映画がどういう状況にあるか、知らぬ存ぜぬを貫き通していたボクは、それでも、この映画の完成時、恐怖におののいていた。今の日本映画とは、全く違ったアプローチだったからだ。しかし、その恐怖心は、ボクの妄想だと知った。初号を観た、仲代さんのお弟子さんらが号泣しているではないか! 仲代さんの満面の笑みも見えたようだった。
雑念を全て取り払い、ひとりの人に贈る映画を初めて作った。仲代さんに向けて集中した。その結果が報われるものだったことに、ボクはひとりほっと胸を撫で下ろしたのだ。

御年84歳の仲代さんが、全身全霊を賭けて演じる桑畑兆吉に、心を打たれない人は、いないだろう。
それは、迫真を通り越した、圧倒的な熱量に溢れている。こんな演技が出来る人を、見たことがない。
それでもボクは、撮影現場での打ち上げで、こんなことを言った。
「これで終わりじゃ、シャレにならないですからね! 次を撮りましょう!」
と。
そうなのだ。次を撮らなければならないのだ。この映画は、仲代さんの新境地かも知れない。しかし、到達点では決してない。あくまで、通過点なのだ!
毀誉褒貶覚悟の上での、確信犯でいよう。そうボクは、自分に念じている。
誰かの言葉ではないが、常に、「代表作は次回作!」なのだ。
仲代さんにとって、今は、その通過点を突破したに過ぎないと、ボクは思っている。



2017年2月15日

小林 政広


2017年1月4日水曜日

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあげてきて、泣きだたのを覚えています。

今は、妻と息子との三人暮らしですが、気が付いたら、息子に、昔親父にいわれていたようなことを言っている自分を感じます。
そういう時に、息子は嫌な顔をしますが、自分を見ているようで、慌てて、口をそぼめたりします。

今年が、どんな年になるか?
毎年、このころになると考えるのですが、決めたことは、実行しないのがボクの性格のようで、何かの思い付きで、まだ何かを始めるかも知れませんが、何もはじめないで安穏といきてければいなと思っています。もうあまり、消耗する仕事は、したくないなとは思いますが、やめたはずのシナリオライターの仕事を少しですが、やったりして、これは、消耗するので、いいものを少しだけにしておきたいと考えています。

最近、映画監督の発言力が大きくなったのか、何でもかんでも、監督が前に出るようなことがあります。ボクも、そんな時期が長く続きましたが、今は、あまりその気はありません。
作ったものがすべてだと考えています。

去年、製作会社が20周年を迎えましたが、何もしませんでた。そんなのでお祝いをするほどの価値はないだろうと思つったからです。
でも、妻が、並べてくれた写真集のようなものをHPにアップしてそれを見ていると、いろんな感慨が浮かんできます。

鬼籍に入るのは、次はボクでしょうから、今更のようにタバコを止めたりもしないし、酒も毎日、少しですが、飲んでいます。
それで、楽しくなれば、まあいいんじゃないかと。

つきあいの酒もたまにありまず、楽しい酒ににしています。
ま、タバコは吸えるところがどんどん減って、もう家でしか吸えなくなっては来ていますがね。

新作「海辺のリア」は、仲代さんのために作った映画です。
この映画だけは、仲代さんでなければできなかった役でしょう。
主人公の名の桑畑は「用心棒」から拝借しています。
様式的な部分と、ドキュメンタルな部分が、まじりあったものです。夢と現実と狂気と、それに…。

6月公開だそうですので、どうぞ、ご覧いただければと思っています。

と、言うわけで、本年も゛とうぞ、よろしくお願いします。



2017年1月4日











2016年12月30日金曜日

ある年の年末のこと、

敬愛していたシナリオライターは、数えるほどしかいない。
その中のひとりが、松原敏春さんだった。
一度だけ新宿の行きつけの飲み屋でお会いした。
嬉しさのあまり度を超した酒で、ボクは愛用の万年筆を松原さんに渡した。
とにかく書きやすい万年筆で毎日持ち歩いていたものだが、軸の部分にガムテープが巻かれていた。
運転中にブレーキを掛けたら折れたからだ。


筆を折ると言う言葉を思い出したのは、家に帰ってからの事だった。


今でも、悔いることだった。
今でも、亡き、松原さんに、申し訳なかったと思っている。
あんなに、尊敬していたのに!


年末になると、必ず、思い出すことだ。

2016年12月15日木曜日

語り部について、

ぽっかりと穴の開いた時間を埋めるのは、ボクにとっては本を読む事だ。
映画ではない。
映画は、見に行くものだし、穴の開いた時間を埋めるものではない。
ボクは、若いころ、60過ぎたら、作家になろうと思っていた。
何の作家かまでは、決めてなかったが、とにかく、物を書いて過ごそうと思っていた。
60を2年ほど過ぎた今、その考えがいまだにあるのは、驚きだが、驚いたところで、物が書けるわけではないし、多分、ボクの理想のようなものなのだろうと、思っている。

去年は、仲代さんからの直接の指名が来て、朗読劇の演出と、時代劇の脚本を書いた。
20年、映画を作って来たので、シナリオライターとして、もの作りに参加するのは、20年ぶりだ。
朗読劇の方も、演出担当者がホンを直すのだと聞いて、やっと演出に専念できると思ったのに、またホンづくりに心血を注がなくてはならなくなり、他人のホンで、演出することは、もうできないのかも知れないと落胆した覚えがある。

書きたくないわけじゃないが、書くなら、自分の好きなように書きたい。
ひとにとやかく言われて直すのは、もう20年前にやめたはずだが、そういう訳にはいかない。
シナリオライターの宿命みたいなもので、第一稿だけが、勝負であり、自分の世界だ。

今、とある原作物のシナリオを書いている。
以前にも、原作をもとにしてシナリオを書いたことはあるが、自由に作り替えることが出来た。
エッセイだったり、自伝だったりしたからだが、ほとんど、オリジナルのシナリオだった。
もちろん、オリジナルシナリオの依頼も沢山あった。
しかし、今は、どうやら様子が違うらしく、原作物を脚色することが多くなった。

原作ものの脚色で思い出すのは、トリュフォーのことだ。
「突然炎のごとく」など、原作に忠実にシナリオを書いたと聞く。
ある時は、原作の本を現場に持ち込み、映画を撮ったそうだ。
地の文を巧みに、ナレーションとして使っている。

これは、やろうと思っても、なかなかできるものではない。
どうしても、自分の世界に引き込もうとする。
小説と映画は、違うと言う理屈のもと、作り変えてしまうのだ。
しかし、トリュフォーは、違っていた。
小説世界をなんとか、そのまま映画にしようとした。
それをやってのけたのは、トリュフォーだけじゃないか?
それほど、その小説にほれ込んだと言うことなんだろう。

脚色をする際には、そんな原作者へのリスペクトが前提にある。
リスペクトなしには、脚色は、なしえないと言ってもいい。

今取り組んでいるシナリオにも、それは当てはまる。
精読して、とにかく、作者の筆の動きまで、感じようとする。
しかし、それは、自分を捨てる行為でもある。
筆の進むままと言うわけにはいかない。

最近、とみに思うことがある。
それは、いかに、無私の境地に自分を置くかと言うことだ。
「私」なんて、なくったっていいと思えるか。
そこが、勝負だと。

どんなに、無私の境地に置いても「私」は、必ず、書いたものに出て来る。
そういう人がいるが、それを踏まえても尚、無私になれるかと言うことだ。
「私」は、出なくていいのだと断定する。
自分は、誰かの語り部で、いいのだと。

しかし、なかなかうまくは、いかない。
語り部に徹せられない。
どうしても、「私」が出て来てしまう。
むずかしい。

毎年、オリジナルのシナリオを一本は、書こうと思っていた。
もう随分前の話だ。
オリジナル脚本集なるものを、自主出版したこともある。
もう随分前だ。
今、また、そんな気持ちが募ってきている。
映画化できるかどうかはわからないが、とにかく、毎年、一本、オリジナルのシナリオを書く。
それが、来年からのテーマになりそうだ。
ただ、その際には、今まで果たせなかった、「語り部」の気持ちで、書くことを念頭にいれて書こうと思う。

ボクの場合、それほど先があるわけではなさそうだ。
だから、残された人生、誰か一人のために、書く。撮ることが、意義深く感じる。
語り部として。









2016年12月12日月曜日

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを少しだけ、羨ましく思った。
何しろ、ボクは、その頃、仕事にこそありついてはいたが、映画の道は、何一つ拓けてはいなかったからだ。

Mさんの店に行ったのは、その時、一度きりだった。
場所が、町田と言うこともあった。
気軽にコーヒーを飲みに行くのには、少し、遠い。
それだけではなく、ボクにも、意地みたいなものがあり、次に行くときは、ボクが映画の世界に身を置いた時だと決めていた。

しかし、それは、一向に訪れる気配は、なかった。
あれから、35年が経つ。
Mさんは、今、どうしてるんだろう。
気になったボクは、食べログとかで調べて、グーグルの地図で、検索してみた。
町田は、昔とは、大部様子が変わっていて、確かにここだと言うところにはいきつかなかったが、それらしき店を見つけた。
「近々、行ってみよう」
と、心の中では思っているが、なかなか実行に移せない。
実に歯がゆいのだが、Mさんのことを思うのが、真夜中で、ひとりきりの時間に、冷めたコーヒーを飲んでいる時なのだから、仕方がない。

ボクは、一日、一杯と言うコーヒーの制限がある。
良く判らないが、カリウムの問題らしい。
それでも、一日三杯は、コーヒーを飲んでいる。
朝のコーヒー。
昼のコーヒー。
そして、呑んだ後のコーヒー。
いつか、そのうちの一杯を、Mさんの淹れたコーヒーで、飲んでみたい。

喫茶店を出すのが、夢だったことがある。
店の名前は、「バルザック」と決めていた。
本で埋め尽くされた喫茶店。
そこで、探究者のようにコーヒーを淹れるのだ。
Mさんのように。

「きっと、逢いに行くからね、Mさん!」
そう呟いて、今日は、眠ろうと思う。
ボクのコーヒータイムは、Mさんの面影を追う旅でもある。

2016年12月9日金曜日

「冷え物」について、

多分、今では名前も知らない人が沢山いるだろう、小田実氏。
かつては、ベ平連を指揮し、政治的な人としてのレッテルを張られた人だったが、ボクと小田氏との出会いは、(勿論直接お会いしたわけではない)世界貧乏旅行記「何でも見てやろう」だった。
20代前半の頃で、難しい文章は、ボクにとっては、読みにくかったが、世界の広さに圧倒され、バイブルのように持ち歩いたのを、覚えている。
そんな小田氏と再会したのは、かれこれ、40年ぶり。
それも、聞いたこともない、「冷え物」と言う、小説だった。

「冷え物」は、同和問題に焦点を当てた小説だと言われている。
言われているだけでなく、小田氏自身も、はっまりとそう書いている。
しかし、ボクには、そうは読めなかったし、そう読むべきではないと思った。


それには、わけがある。
先月、佐賀県鹿島市で行われた、同和問題の講演依頼が舞い込んできて、
「同和の事は、良く知りませんが、人権については、少しは話せるかもしれません」
と、メールを打ち、
ボクの映画「日本の悲劇」の上映をしていただければとの条件付きで、講演依頼を受けたからだ。

同和問題に興味はあったものの、同和に関しては、そんなに話も持ち合わせていなかったので、あまり踏み込んだ話は出来ない。
映画と関連させての、「人権」の話だったら、言えるかなと思い受けた。

しかし、空港に着くなり、役所の担当者が迎えに来ていて、各地で、いまだに「同和問題」が、なくなってはいないことを知り、
ついては、少しだけでも結構ですから、同和問題に触れていただきたい。同和問題の講演ですからと釘を刺されてしまった。
また、えらいことを引き受けてしまったなと、思った。

この国だけではなく、「差別」の問題は、各国にあるんだと思う。
差別する側と差別される側。それだけの問題ではなく、差別された側も、また、差別する側に回っている現実。
それは、ボク自身にも、ある。

ボクの国籍は、日本人と言うことになっているが、遡れば、どこから先祖が来たのかはわからない。
埃をかぶった過去帳を見ても、何がなにやらわからない。
そんな日本人が、ボクだ。
かつて、「ルーツ」と言う自伝的小説があっったが、あのように明快でないのが、ボクだ。

そんな自分自身のルーツが判らない中で、人を差別するのは、自分で自分を断罪するようなものだと思っている。
しかし、ボクは、そんなに正しい人間ではない。
意識としての差別は、ボク自身の中にあったし、今でも、あるのかも知れない。

「同和問題」は、すなはち、自分自身の問題なのだと思うのは、今、この歳になってのことだし、少なくとも、20代の頃は、人を平気で、差別していたのではないかと思う。しかし、人を差別すると言うことは、自分もまた、差別されることだと思い知った。

最初に、そのことを感じたのは、20代後半に、フランスに行った時だ。
田舎町をふらついていて、空腹に、ホテルで食べられるようなものを探しに、小さなスーパーマーケットに入った時のことだ。
身ぎれいな老婆がボクを見て、蔑んだような目で見て、汚い言葉を浴びせてきた。

それまでボクは、人から差別されるなんて、考えてもいなかった。
しかし、日本人であるがために、差別されると言うことの現実を目の当たりにした。
それは、いままでのすべての価値観を変えてしまうほどの衝撃だった。

正直、辛かった。
多分、その老婆は、大戦で親族を亡くしたのかも知れない。
敵国のひとつが日本で、その恨みで吐いた言葉なのかも知れない。
「ボクが、起こした戦争ではないだろう」
とその時は、そう思ったが、自分が日本人である限り、それだけでは済まないこともわかった。

以来ボクには、日本人であることの誇りと同時に、負い目もある。
存在することの、肯定と否定。
それは、もともとコムプレックスの塊だったボクを、一層、神経質なものにさせた。
カフェに入って、コーヒーを飲んでる時も、誰かがボクの方を見て笑っているだけで、卑屈にうつむいた。
通り過ぎた人から、すれ違い様に罵声を浴びせられたこともある。

そんな色々なことを、帰国したボクは、すっかり忘れていた。
それが、たった一度の講演依頼を受けたがために、蘇ってきた。

講演のことは、このぐらいにしておこう。
とりたてて、自慢するほどのことでもない。ボクとしては、「日本の悲劇」が、沢山の人に観てもらえただけで、満足だ。反応も、悪くはなかった。

帰ってからのことだ。
ボクの中では、「同和問題」と言う言葉が、頭から離れずにいた。
「冷え物」と出会ったのは、そんなときだった。

凄まじいばかりの筆力で書かれたその本が、ボクを虜にした。
読み続けたくない本だが、読まずにいられない力があった。

いずれにしても、本や映画は、出会いだ。
「冷え物」を読んで、何かが芽生えたわけではないが、最近では、ほとんど出会うことのない、不完全な人間たちの葛藤が、展開されている。
そこに、息遣いのようなものを感じ、いまだに、記憶に残っていると、言うわけだ。

今では、恐らく、キンドルでしか読めない本だろう。
「冷え物」と出会うために、電子ブックに手を染める。
それがいい決断だったことを、願いたい、







10月19日に思うこと、

  総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。 議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。 ...