『日本の悲劇』が公開されて、ようやく肩の荷が下りた。
とは言え、まだ映画は、公開中で、地方都市を回っている。
ひととおりの上映が終了するのは、来年一月ぐらいだと、配給の人が言っていた。
この映画は、311の震災とは直接関連はないが、震災のあった時期の話で、登場人物は、映像には出て来ないが、被災している。
と、言うよりも、『日本の悲劇』に出て来る家族は、311の日に、完全に時間が止まってしまったのだと考えた。
勿論、引き返すことも出来ない。前に、進むことも出来ない。
そう言う意味で。
だから、部屋のカレンダーも、2011年3月を示したままにした。
今、この家族(家族と呼べる単位であることを願うばかりだが)が、どんな暮らしをしているのか?
ふと考えてみた。
もちろん、ミイラになってしまった不二男を生き返らすことは出来ないが、掛かってきた電話が、別れた妻からのものであったなら、どうなっているだろうか? とか、当初考えていたように、妻は、津波にさらわれたものの、娘の博子は、生きていて、避難所生活を送っているとしたら? 博子の母方の親族が、全て、亡くなってしまってたとしたら、唯一、残された血縁である、父に連絡を取るはずだし、いつかその電話を、取る時が来るはずだと思うと、『日本の悲劇』にも、少しだが、光明を見出すことが出来る。
義男は、娘博子を引き取る前に、警察に自首し、年金不正受給の罪と、死体隠匿の罪で、起訴され、罪を償い、その後、博子を引き取り、本気で、仕事を探すだろう。
ボクは、今そのようなことを考えてみて、あの映画が、あのような時点で、終わってしまってよかったものなのかと思う。
もちろん、製作時に、その先のシーンを考えないことはなかったのだが、ここまでの考えには至らなかった。まだ、2011年10月の時点で、そのような考えが、浮かぶはずもなかったのだが…。
人間は、生きねばならない。
しかし、時として、人間は、自ら、死を選ぶこともある。
生と死との境界は、意外に、もろく、薄い。
その境界に、今、ボクたちは、立っているんじゃないだろうか?
死への一歩を踏み出す前に、うずくまるでも良い。立ち止まるでも良い。とにかく、そこに留まって、時が過ぎゆくのを、待っていようではないか。
夜が明けないことはない。
闇には、いつか光が射すのだから。
2013年10月15日火曜日
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