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2011/04/26

体調が良くないので、デスクに向って、このブログを書いていると決まって、すぐにいきずまってしまう。それで、何度も中断し、ついには諦めていた。

字を書いたりするのは、本当に体力がないとできるものではない。頭を働かせることも億劫になってしまうのだから。

本当に困ったものだ。

それでも、何とか、今日は書いてみようと思う。いつもは寝酒の一杯でも引っかけないと、なかなか書けないのだが、今日は別だ。夕飯時に瓶ビールを一本飲んだが、だいぶ時間が経っている。おまけに湯にもつかった。

ずっかりとは言えないまでも、酔いはない。だから大丈夫だろう。

しかしだ。

いざ、パソコンに向かって何かを書こうとしても、一体何を書いたらいいものやら。見当がつかない。とりかかってる映画のことでも書こうと思ったが、まだ秘密の段階だ。いや、こうして今、映画に取り掛かっていると書くこと自体、良くはない。映画は、よこしまな人間の密かな企みだから、あまり人々に知れると、後ろめたさがなくなってしまい、白けてしまうのだ。秘密がいいのだ。ずっと秘密。映画を作っていることも誰にも知らせず、出来上がっても、誰も知らない。どこか外国の映画祭で、一度か二度掛かって、それほど評判も呼ばず、日本では公開もない。もちろんそれでは掛けたお金を回収することもできず、ボクは今より更に貧乏になり、二度と映画を作ることもできなくなる。だからそんなことは、出来るわけがないのだけれど、それでもやはり、一度はそんな映画を作ってみたいと思う。これでもか! と言うぐらいに退屈な、それでいて、愛おしくなるような人間の営みを描いたもの。何も起こらない。何一つ! …でも、ボクには死ぬまで作れないだろうな、そんな映画は。第一、シナリオが書けない。うん。それが一番大きな問題だな。

良かれ悪しかれ、ボクはテレビの世界で生きてきたから、嫌がおうにも娯楽性とか、ストーリー性とかが身についてしまったようだ。テレビの世界に入るまでは、本当に素直ないいシナリオを書いていたんだけど、踏絵を一度経験すると、もう、引き返すことは出来ないようだ。



そう。だらだらと毎日を過ごしている怠惰な男の身辺雑記。今日のところはそれでいいのだ。あとは何もいらない。とにかく、書く習慣を復活させること。それが大事なのだと思う。

ところがだ。そのだらだらと怠惰に毎日を過ごしている男の身辺雑記と言うものが、ボクにはどうも苦手ときてる。何かしないといられない性分だし、すぐに苛立つ性格だからだ。「だらだらと怠惰に」に、あこがれてはいるのだが、三日もてばいい方で、四日目には、そんな自分にイラついている。困ったものだ。

今日は、本当に久しぶりに、焼き肉を食べに行ったのだけれど、それが、格別おいしかったからと言って、ここで綿々と書く気にはならないし、花や草の名前を知っているわけではないので、風流人気取りも出来ない。

ペンハウスと言うHPで、復刻版のペリカンの万年筆が出ていて、太字は、残るところ一本きりで、それをカートに入れようかどうしようか二時間ほど悩んだ。その間、あれこれと別の万年筆を見て歩き、ペリカンのページに戻っては、「ああ、欲しいなあ」とつぶやいていた。

今日は体が重くて、気力もないので、考えることも出来ない。とにかく、横になりたいだけ。でも、横になっても、充分すぎるぐらい眠ったので、もう眠ることも出来ない。

だから、ペリカンの復刻版をカートに入れようかどうしようかで、二時間も時間をつぶしてしまったわけだ。

つまるところ、今日は、そのぐらいのことしかやっておらず、もうすでに、ボクのテーブルには、ワインがあるので、今日はこの辺で、終わることにしよう。

あしたは、もう少し、マシな文が書けるかも知れないが、明日になってみないとわからない。

では、おやすみ。

皆さんは、いい夢を見てください。

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…