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気概、

映画は、気概だなあとつくづく思う。
それしかないようにも思う。
それも、生半可な気概では、とても太刀打ちできない。
研ぎ澄ました刃を手に、満を侍して鋭く切り込んでいく気概ではなく、土壇場に立ち、前後を見失いながらも、刃こぼれした刃を頼りに、一局に集中する気概。
画に現れるのは、そんな必死の気概のみだ。

『日本の悲劇』②

『日本の悲劇』を撮るまで『切腹』は再見しないと決めていた。
何度もDVDに手が伸びたが、観たら絶対に影響されると思ったから観なかった。
撮影が終了して、偶然のように、この映画を観た。
UTUBEで、いくつか音楽を聴き、それから映画の予告編を観ていったのだが、ふと目に入ったタイトルが『HARAKIRI』だった。
9つのファイルに分けられていて、深夜、何の気なしに観たのだが、1から2に、2から3にと進んで行って、ついに9まで観てしまった。
それでも止まらず、また1に戻り、9までを、繰り返した。
ほとんど一日、『HARAHIRI』を見続けたことになる。
もちろんボクは、『切腹』のDVDを持っている。
どこへ行くにもこのDVDだけはバッグに入れておいて、いつでも観られる状態にしてあるのだ。
しかし、観なかった。
今、ふとしたことからの映画を再見して、途方に暮れている。
いや、愕然としていると言った方がいいのか…?
共通点があまりに多いということにだ。
数年前に観たこの映画に、ボクはどれだけ影響されていたかということを、思い知らされたのだ。
映画が、人の心の底に根深く残るものだということを、改めて知った。
そして、『切腹』の主演をつとめた仲代達矢氏との映画作りを経験したことへの奇跡的な幸運と幸福に改めて酔いしれている。
完成は、一月の予定だ。
お客さんが、未だかつて見たことのない仲代達矢氏に出会えることを保証するとともに、『切腹』には遠く及ばないまでも、人の心の奥底に根深く残る映画になることを願ってやまない。

『ギリギリの女たち』のこと、

知ってる人は知ってるのだが、ボクはこの映画のもとになった脚本を随分前から持ち歩いていた。キャスト欄には名前も入っていたが、実現することはなかった。
こんなことは良くあることだったが、その時は、自主制作でも作る積りでいたので、製作を中止した時は、随分と落ち込んだ。
キャスト欄に名前を並べた人たちにも申し訳ない気持ちだった。
この脚本は、以来何年か寝かせた。いや、すでに頭の中から、この映画のことは消し去っていた。
コメディー色の強いこの脚本を、ボクは大好きだったが、その頃のボクが作るには軽すぎた。これではどこの映画祭に出しても、鼻も引っかけてくれないだろう。映画祭に出品することが難しいということは、国内での上映にも大きく影響してくる。作ったは良いけど、映画館に掛けられない可能性もある。
今では、そのような映画が一本ぐらいあってもいいかなと思うが、当時はとてもそんなわけにはいかなかった。金の余裕がないのは、今でもだが、それ以上に精神面でも余裕がなかったのだ。フイルムで撮影するとなると、最低でも、1千万は掛かる。遊びや道楽でできるものではないし、全く回収できないのは、困る。
作ったはいいが、ボクらの生活ができなくなるからだ。
年金生活者なら、月7万はもらえるから、都営住宅にでも入れば、生きてはいけるのかも知れないが、まだボクは、その頃、50になったばかりだったし、年金がもらえるわけもない。
つまり、『ギリギリの女たち』は、一度は堕胎した罪深い脚本なのだ。
この脚本を再度、蘇らせようと思ったきっかけは、FACEBOOKにあった。
ある日、Kさんの書かれた石井裕也監督の映画のDVDの記事を見て、低予算で作ったとあり、ボクもそのような映画を一本ぐらい作ってみようという気になった。
それで、Kさんに連絡した。
すると、Kさんも、直ぐに乗ってきて…といった具合で、それからはとんとん拍子だった。
とはいえ、映画を作るといっても、企画がない。
いや、企画は掘り起こせば何かあるに違いない。
問題は、別にあった。
低予算映画というのは、ボクも作ってはいるが、それでも、前に書いたように1千万は掛かる。
フイルムで撮る以上、それ以下では不可能だ。
では、ビデオか?
ボクが、デジタルで映画を撮るのか?!
そこでつまずいてしまった。
デジタルと言っても、様々な機材があり、ピンからキリまでだ。
その…

東京国際映画祭にて、

今日で東京国際映画祭が終わる。
長いようで短い9日間だった。
自作の出品に加えて、コンペの審査員という大役を仰せつかって、14本の映画を観つつ、自作の上映のQAにもでかけた。
へたばっている暇もないほどだった。
14本の映画を観ながら、自作の映画『ギリギリの女たち』のことが気になって仕方がなかった。
そりゃあそうだろう。
心血注いだ映画のお披露目だ。気になるのが当たり前だし、客の反応が知りたいのは、当然のこと。
とくに今作は、色々と冒険をさせてもらったので尚更だ。
それら冒険が、どう受けいられるのか、知りたくてたまらない。
観客に拒否されて、あえなく敗退の憂き目に会うのかもしれない。
ロケ地が被災地だと言うことも気になる。
極力、神経を使って撮影に臨んだつもりだが、それが観客にはどう映ったのか?
心配を通り越して、恐怖心さえ覚えた。
しかし、そんな危惧も取り越し苦労だったようだ。
映画はお客さんに受けいられたようだからだ。
上映が終わって、スタッフやキャストと乾杯をして、その後、中村優子とそのご主人とうちの家内とで食事をして別れた後は、久しぶりに心地良い眠りが待っていた。
夢も見なかった。
そして、今日は、映画祭最終日。
クロージングセレモニーがある。
ボクは、受賞者の名前を読み上げなくてはならない。
ボクは、心から、その人の名前を読み上げるのを、光栄に思っている。
恐らくボクより歳若いその人の作品を観たとき、ボクは、「ああ、この人の作品と出会うために、映画祭の審査員になったんだな」と思った。
人と同様、映画もまた、出会いだ。
そして、映画祭の審査員として、この映画と出会ったことは、まだまだ悲観的になることはなく、映画に希望を持って臨めることを教えてくれた、かけがえのない一本だった。

『日本の悲劇』 

仲代達矢さんとの二度目の仕事が、すすんでいる。
『日本の悲劇』と題するこの映画のシナリオを、ボクは遺書を書くような気持ちで、書き綴っていった。
とてもこれは映画にはならないだろうなあと思っていた。遺書というものは、何度も書くものではないと思うし、書き直したりもしないものなんじゃないだろうか?
だから、一度書いて、「遺書としては不満が残るな」と思いながらも、なかなか直しの手がつけられなかった。
もちろん、誰にも読ませなかった。
年が明けて、ボクは引っ越しをした。
『春との旅』を撮ってから二年近くが経っていて、生活は困窮し、とても今の生活を維持することができなくなったからだ。
とは言え、映画は別の仕事を探すこともできなかった。
探したところで、体の調子を考えると、とてもつとまらないだろうと思ったからだ。
ならば映画なら作れるのかというと、そんなことはない。
つまりボクは、もう映画を作るのはやめて、近い将来は、障害者の年金でなんてか生きていこうと考えていた。
全くもって消極的な考えで、今思うとどうかしている。
もちろん、『日本の悲劇』のことも頭からは外れていた。
そうして、3月11日を迎えた。
その日、ボクはもうしばらくは歌えないだろうと予測し、最後のライブと銘打って、吉祥寺のライブハウスに向かおうとしていた。
飯田橋の喫茶店で、唄う曲順などを考えて、時間を潰していた。
その時、地震に遭遇したのだ。
結局、ライブには行けず、その夜は事務所で奥さんと二人で、雑魚寝した。
そして、翌日も東京に残り、翌々日に、大阪に戻った。

それからひと月は、部屋に籠った。
部屋に籠って、毎日毎日、テレビを見続けた。
毎日毎日、被災地がテレビに映り、家のある気仙沼市も毎日のようにテレビで見た。
言葉もなかった。
知り合いに何度電話しても電話は繋がらない。
そのうち、電話をするのが怖くなった。
何ら被災もせずにのうのうと生きている自分が後ろめたくもあった。
大阪にいることも何だか嫌だった。
すべてが嫌だった。
そんな時に、『日本の悲劇』のコピー台本を目にした。
書きかけのノートなどと一緒に床に積まれていたのだ。
取り出して、読みだした。
やはり、作品の体をなしていないと思った。
破り捨てた。

それから数日後、こんどはパソコンのメモリーに入っていた『日本の悲劇』と出会った。
いきなり、パソコン上…

2011/07/18

ライブ、二本が無事、終了しました。 来てくれた方々、本当にありがとうございました。 また、仲代達矢さんからは、もの凄い花が届いて、感謝感激です。 しばらく、人前で唄うことは避けて、自分の音楽を、探ってみようと思っています。 もちろん、今までも、探り続けてきた訳ですが、まだ中途半端で、自分自身が何とも、納得がいかないところがあります。 躰のこともありますので、旅に出て唄うことも出来ないでしょうし、狭い範囲でしかなりたたないとは思いますが、来年のある時期からは、定期的に続けられたらと思っています。 いずれにしても、映画作りと同様、唄う事は、一生の仕事と思っています。 どちらも、娯楽とかエンタテインメントとか言われるものとはほど遠いものですが、どうか皆さん、末永くお付き合いのほど願います。
皆さん、本当にありがとうございました。

ライブの告知です、

7月に、二本、ライブを行います。 マンダラ2 のライブは311の日に行う予定だったライブです。 どうぞ皆さん、お誘い合わせの上、お越し下さい。

7月15日(金) [吉祥寺で逢いましょうvol.3ー真夏の仕切り直し編ー] 桜井明弘(vo.g) 小林政広(vo.g) ゲスト:中川五郎(vo.g)
18:30/19:30 ¥2800/3000+drink 前売券店頭発売 6/15~

吉祥寺マンダラ2 http://www.mandala.gr.jp/man2.html


7月16日(土) 桜井明弘 小林政広 ★のんびりだらだらと行きたいと思います。これにて、ボクはお休みします、
亀有KID BOX http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=kidbox

5

中国行は初めてなので、ほんとうに期待していたのだけれども、映画祭ならまだしも、多分に政治色の濃い今回の「日中交流映画週間」。果たして、自由に歩き回れる時間がどれぐらいあるのか? と危惧していた。 渡された予定表を見る限り、到着した翌日の午前ぐらいは、何も行事がはいっていないので、その辺しかないかなと思っていたが、実際、到着して、迎えの車で、ホテルにチェックインし、アテンドの人から、 「食事はルームサービスでおとりください」 と言われて、やはり、外での食事は無理かと落胆した。 車でホテルまで来る間に、まだ開いている店は沢山あったのだが、ホテルの近くは薄暗かったから、外に出るには、時間も遅く、観念して部屋に入ったのだが、その部屋が何とスイートで、バカでかい。 スイートには、以前もどこかで泊まったことがある。 それも、その時は、一人だったので、腰を抜かしたのだが、本当に腰を抜かしたわけではなくて、腰を抜かしそうなほど、感動したということ。 でも、今回は、とにかく飛行機の旅が長かったのと、スーツケースの一件がまだ片付いてないのとで、感動する余裕もなく、ソファーに身をゆだね、一服し、それからルームサービスを注文した、 「美味いね」 などと言いながら、来たものを食べ、下着もないものだから、風呂に入る気も起きず、 「まあ、明日でいいか」 となり、ボクはさっさとベッドにもぐりこんだ。 冷たいシーツが気持ちいい。 外は、凄い雨だったが、(稲妻が走っていた)今は小降りになったようだ。 少しだけエアコンを掛けて、目を閉じた。 考えなくちゃいけないことが山ほどあるが、こういう日は、考えたって何かまとまるもんじゃなく、 「んーん、あれだけどどうすっかなあ…」 などと言ってる間に、眠りについてしまった。 こちらに来ているゲストの人たち、誰ともまだ会っていない。 それが幸いしてか、本当によく眠った。 6時間ほど、熟睡した。
朝食は、二階のレストランで、ビュッフェスタイルの食事。 白いご飯はどこを探してもない。 その代わりに、お粥があり、トッピングは好きなものを入れられる。 洋食も充実しているけど、勿論中華も凄い充実ぶりだ。 その気になれば、一日分を腹に収めることも出来るが、今日は、昼も夕飯も予定にあるので、いつもの朝ごはん程度で済ました。 でも、幾分多めかな? トーストも食べたし、フルーツも食べたからな。 部屋に戻ろうとすると、奥さんが、 「ちょっと…

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オルリーに着いて、ボクらは走った。
疾走といった感じ。
もちろん、ボクは、足が攣るのが怖くて、それほど速くは走れなかったけれども、気持ちの上では、まさに、疾走だ。
突っ走り、飛行場のカウンターに行き、無愛想な女の子に、顎で、「向こう」とか言われて、今度は、荷物取扱いのカウンターへ。
しかし、そこは、長蛇の列。
ボクは意気地なしだから、奥さんに、「行け!」と言って、たまたまカウンターに入ってきた男を掴まえさせた。
ボクは少しだけフランス語ができるが、奥さんは全くなので、こういうときは、奥さんの方がいいのだ。
手荷物の預かり札を見せて、英語と日本語で、とにかく、「急いでる!!」を繰り返したんだと思う。
相手も顔色を変えて、中に入って行った。
しばらくして戻って来て、
「あなたたちの手荷物は、ヒュースローに行ってる。そこから、JALの飛行機に載せる予定だ」
と言うのだ!!
「ええ?! そ、それじゃ、ここに俺たち来なくて良かったってことじゃないかよ!!」
ムカッと来た。
誰に対して腹を立てているのかと言うと、それは、CDGのJALの女にだ。
「あのヤロー!」
と、待ってもらっていたタクシーに乗り込み、ボクは言った。
「スーツケースは、この札の通り、成田に向かってるってことじゃないか! どうしてくれるんだ!! 飛行機に乗り遅れたら、誰が責任をとるんだ!!」
ボクはタクシーの後部席で、暴れださんばかりの勢いだ。
奥さんは、
「怒らないで。絶対に、空港に着いても、あの人を怒鳴りつけちゃだめよ」
と繰り返す。
「いやしないさ!! あの女は、きっともういない! それでボクたちは飛行機に乗り遅れて、一晩をCDGで過ごすんだ。北京もキャンセルだ。もう、滅茶苦茶だよ!!」
血糖値と血圧が一気に上がるのを感じた。
きっと血管の中の血は、ざら飴状態になっていることだろう。
タクシーは、いくつかの渋滞にあいはしたが、CDGには、離陸30分前に着いた。
奥さんが、運転手さんにチップを多めに渡したいと言い、10ユーロ札を出したので、「いや、待て待て。5でいい」
とか、この場に及んで、渋るボクを、軽蔑した眼差しでにらんだ。
5ユーロのチップだって、立派なもんだ。昔はともかく、今は、カフェに入ったって、チップを残していく奴なんか、見た事もない。もちろん、サービスコンプリだから、基本的にチップは必要ないのは昔からだけど、通訳とかがいると、必ず、「ここは、3ユ…