スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2011の投稿を表示しています

『日本の悲劇』 

仲代達矢さんとの二度目の仕事が、すすんでいる。
『日本の悲劇』と題するこの映画のシナリオを、ボクは遺書を書くような気持ちで、書き綴っていった。
とてもこれは映画にはならないだろうなあと思っていた。遺書というものは、何度も書くものではないと思うし、書き直したりもしないものなんじゃないだろうか?
だから、一度書いて、「遺書としては不満が残るな」と思いながらも、なかなか直しの手がつけられなかった。
もちろん、誰にも読ませなかった。
年が明けて、ボクは引っ越しをした。
『春との旅』を撮ってから二年近くが経っていて、生活は困窮し、とても今の生活を維持することができなくなったからだ。
とは言え、映画は別の仕事を探すこともできなかった。
探したところで、体の調子を考えると、とてもつとまらないだろうと思ったからだ。
ならば映画なら作れるのかというと、そんなことはない。
つまりボクは、もう映画を作るのはやめて、近い将来は、障害者の年金でなんてか生きていこうと考えていた。
全くもって消極的な考えで、今思うとどうかしている。
もちろん、『日本の悲劇』のことも頭からは外れていた。
そうして、3月11日を迎えた。
その日、ボクはもうしばらくは歌えないだろうと予測し、最後のライブと銘打って、吉祥寺のライブハウスに向かおうとしていた。
飯田橋の喫茶店で、唄う曲順などを考えて、時間を潰していた。
その時、地震に遭遇したのだ。
結局、ライブには行けず、その夜は事務所で奥さんと二人で、雑魚寝した。
そして、翌日も東京に残り、翌々日に、大阪に戻った。

それからひと月は、部屋に籠った。
部屋に籠って、毎日毎日、テレビを見続けた。
毎日毎日、被災地がテレビに映り、家のある気仙沼市も毎日のようにテレビで見た。
言葉もなかった。
知り合いに何度電話しても電話は繋がらない。
そのうち、電話をするのが怖くなった。
何ら被災もせずにのうのうと生きている自分が後ろめたくもあった。
大阪にいることも何だか嫌だった。
すべてが嫌だった。
そんな時に、『日本の悲劇』のコピー台本を目にした。
書きかけのノートなどと一緒に床に積まれていたのだ。
取り出して、読みだした。
やはり、作品の体をなしていないと思った。
破り捨てた。

それから数日後、こんどはパソコンのメモリーに入っていた『日本の悲劇』と出会った。
いきなり、パソコン上…