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2017/03/22

近ごろ、怠けている。
机に向かうのが、苦しい。
ペンを持つことも少ない。
これじゃ駄目だと思いつつ、毎日が、過ぎて行く。

先日、録画してあったテレビ番組を、続けて何本か観た。
自動的に録画されているものがほとんどで、意図したものではないので、ほとんどは、消してしまうのだけれども、これはいつか観てみようというものは、残している。
それらのうちから、何本かを観たのだが、どれも、面白い。
小野田寛郎さんのドキュメンタリーなどは、録画しておいて良かったと思った。
ずっと、小野田さんのことを考えていた時期があり、なんとか作品に出来ないかと思っていたが、どのような作りにしたらいいのか、答えが出なかった。
ボクの中では、ピーターオトゥールの『マーフィーの戦い』が、頭にあった。
モチーフはこれだと、思っていたが、その先がうまくいかない。
改めて、『マーフィーの戦い』を観たが、イメージにあったものとは、かなり違っていた。
こういうことは、本当によくあることだが、ここまで、頭の中にあったものと実際の映画が、かけ離れていたのは、珍しいケースだ。正直、がっかりした。
ボクは、もしかしたら、『マーフィーの戦い』は、小野田さんをモデルにして作ったのかと思っていた。
しかし、もちろんそれは違っていて、『マーフィーの戦い』は、小野田さんが救出される数年前に作られた映画で、ボクも、確かに、小野田さんのニュースが流れる何年か前に観た記憶がある。
小野田さんが『マーフィーの戦い』のモデルではなくて、『マーフィーの戦い』と似たようなことが、日本でも起こっていたと言うことなのだ。
第一、『マーフィーの戦い』には、原作がある。
おまけに、イギリスの商船が、ドイツのUボートに襲われて…といった具合に、物語は全くと言ってい良いほど、異なっている。
なのになぜ、この映画と小野田さんが重なったのか、わからない。
終戦となってもなお、たったとりの戦いを続けていたことなのか?
もちろん、それが大きく、ボクの意識の中にあったのだろうが、とんだ、見当違いをしたものだ。

それでも、ピーターイェーツの『マーフィーの戦い』が、ボクの中で、映画としての価値を失ったのかというと、そんなことはない。
名作だと思っている。
こういう異質な作品は、めったに作られることはないだろうし、これからも二度と作られることはないだろう。

テレビを観ていて、小野田さんら数人の生き残りの日本兵が、20数年にもわたって、終戦を知らず、占領地である海岸に、近くの住民が生活のために魚を獲りに、また、パパイヤの実を取りに来ただけで、襲撃し、何人もの死者を出したと言う事実。
ある時は、フィリピンの警察軍と銃撃戦となり、仲間がひとりまたひとりと倒れて行った事実。
終戦を告げるビラを撒こうが、親兄弟が呼びかけようが、信じられず、姿を現さなかった事実。
最終的に、小野田さんは、生き残った最後の部下をも失い、焦燥の中にいた。それでも、投降を拒んだ。
小野田さんと接触したのは、ひとりの若い冒険家だったと言う事実。
そこでようやく小野田さんは、投降することを決意し、フィリピン政府に引き渡された。

そこから始まる政治的駆け引き。
マルコス大統領の決断。
無罪放免となった小野田さんは、日本に帰国、戦友の墓参りを最優先にしたいといった小野田さんの希望を無視して、政府に引き回され、国民的英雄とまであがめたてられ、その後、日本にも居続けることが出来ず、かといって、様々な感情が交差するフィリピンに戻ることも出来ずに、ブラジルに移住し、牧場主となり、地域の人たちに貢献していく。

こんな人生が、あるのか! と思う。
いや、こんな人生が現実に、存在していたのだ。
そのことに驚嘆と、何か、自分ではなしえない生命力を感じる。
ボクなどは、ひと月も生き延びることはできなかったろう。

なぜだろう。
ボクは、小野田さんに昔から興味を感じる。
できれば、お話を聞きたかった。
映画にもしてみたかった。
それは、やはり「たったひとりの戦い」に興味があったからだ。
小野田さんを描くことは、ゲバラを描くことよりも価値のあることのように思える。
小野田さんは、2014年に亡くなった。
91歳だった。
終戦後30年間戦いづけた男。
興味は尽きない、





コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…