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『日本の悲劇』 

仲代達矢さんとの二度目の仕事が、すすんでいる。
『日本の悲劇』と題するこの映画のシナリオを、ボクは遺書を書くような気持ちで、書き綴っていった。
とてもこれは映画にはならないだろうなあと思っていた。遺書というものは、何度も書くものではないと思うし、書き直したりもしないものなんじゃないだろうか?
だから、一度書いて、「遺書としては不満が残るな」と思いながらも、なかなか直しの手がつけられなかった。
もちろん、誰にも読ませなかった。
年が明けて、ボクは引っ越しをした。
『春との旅』を撮ってから二年近くが経っていて、生活は困窮し、とても今の生活を維持することができなくなったからだ。
とは言え、映画は別の仕事を探すこともできなかった。
探したところで、体の調子を考えると、とてもつとまらないだろうと思ったからだ。
ならば映画なら作れるのかというと、そんなことはない。
つまりボクは、もう映画を作るのはやめて、近い将来は、障害者の年金でなんてか生きていこうと考えていた。
全くもって消極的な考えで、今思うとどうかしている。
もちろん、『日本の悲劇』のことも頭からは外れていた。
そうして、3月11日を迎えた。
その日、ボクはもうしばらくは歌えないだろうと予測し、最後のライブと銘打って、吉祥寺のライブハウスに向かおうとしていた。
飯田橋の喫茶店で、唄う曲順などを考えて、時間を潰していた。
その時、地震に遭遇したのだ。
結局、ライブには行けず、その夜は事務所で奥さんと二人で、雑魚寝した。
そして、翌日も東京に残り、翌々日に、大阪に戻った。

それからひと月は、部屋に籠った。
部屋に籠って、毎日毎日、テレビを見続けた。
毎日毎日、被災地がテレビに映り、家のある気仙沼市も毎日のようにテレビで見た。
言葉もなかった。
知り合いに何度電話しても電話は繋がらない。
そのうち、電話をするのが怖くなった。
何ら被災もせずにのうのうと生きている自分が後ろめたくもあった。
大阪にいることも何だか嫌だった。
すべてが嫌だった。
そんな時に、『日本の悲劇』のコピー台本を目にした。
書きかけのノートなどと一緒に床に積まれていたのだ。
取り出して、読みだした。
やはり、作品の体をなしていないと思った。
破り捨てた。

それから数日後、こんどはパソコンのメモリーに入っていた『日本の悲劇』と出会った。
いきなり、パソコン上で、手を入れた。
極端な食事制限をしていると数時間パソコンに向かっているだけで、もうへとへとになる。
そういうときは、ベッドに横になる。
知らない間に、眠っている。
毎日がその繰り返しだ。
30分デスクに向かい、数時間、ベッド。
一日の大半をベッドで過ごし、後は、食事をしているか、デスクに向かっているかだ。
考えのまとまらないまま、指だけは、文字を打ち込んでいく。
本当に薄い台本が、2時間にはなるだろう脚本に変わった。
それからボクはこの脚本を、一度も読み返すことなく、仲代さんに送った。
返事は、直ぐに来た。
「ぜひ、やりましょう」
とのことだった。
それから半年、この映画は撮影に突入することになった。
うんざりするほど長い時間だった。

今、ボクは、この映画を自分の遺書だとは思っていない。
遺書とするには、途方もない金がかかってしまった。
遺書なんてものは、紙とペンで書くもので、もちろん映画にするもんじゃない。
しかし、だからと言って、この映画が、どれだけの人に観てもらえるのか?
多分、ほんのわずかな人にしか観られない映画になるんだろう。
いや、むしろ、ボクは、ほんのわずかな人にしか観てもらえないような映画にするつもりだ。
ヒットもクソもありゃしないのだ。
どうでもいい。

持てる力も、もうわずかしかない。
才能はとっくに枯渇している。
野心も欲もなくなった。
自分が観たい映画を作る気もない。
ただ、作るだけだ。

この映画が完成し、仲代達矢演じる不二夫の死に様に、滑稽さを見出してくれたら、幸いだ。


コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
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あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
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客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

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いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

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あけまして、おめでとうございます。

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連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

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と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…