2011年10月9日日曜日

『日本の悲劇』 

仲代達矢さんとの二度目の仕事が、すすんでいる。
『日本の悲劇』と題するこの映画のシナリオを、ボクは遺書を書くような気持ちで、書き綴っていった。
とてもこれは映画にはならないだろうなあと思っていた。遺書というものは、何度も書くものではないと思うし、書き直したりもしないものなんじゃないだろうか?
だから、一度書いて、「遺書としては不満が残るな」と思いながらも、なかなか直しの手がつけられなかった。
もちろん、誰にも読ませなかった。
年が明けて、ボクは引っ越しをした。
『春との旅』を撮ってから二年近くが経っていて、生活は困窮し、とても今の生活を維持することができなくなったからだ。
とは言え、映画は別の仕事を探すこともできなかった。
探したところで、体の調子を考えると、とてもつとまらないだろうと思ったからだ。
ならば映画なら作れるのかというと、そんなことはない。
つまりボクは、もう映画を作るのはやめて、近い将来は、障害者の年金でなんてか生きていこうと考えていた。
全くもって消極的な考えで、今思うとどうかしている。
もちろん、『日本の悲劇』のことも頭からは外れていた。
そうして、3月11日を迎えた。
その日、ボクはもうしばらくは歌えないだろうと予測し、最後のライブと銘打って、吉祥寺のライブハウスに向かおうとしていた。
飯田橋の喫茶店で、唄う曲順などを考えて、時間を潰していた。
その時、地震に遭遇したのだ。
結局、ライブには行けず、その夜は事務所で奥さんと二人で、雑魚寝した。
そして、翌日も東京に残り、翌々日に、大阪に戻った。

それからひと月は、部屋に籠った。
部屋に籠って、毎日毎日、テレビを見続けた。
毎日毎日、被災地がテレビに映り、家のある気仙沼市も毎日のようにテレビで見た。
言葉もなかった。
知り合いに何度電話しても電話は繋がらない。
そのうち、電話をするのが怖くなった。
何ら被災もせずにのうのうと生きている自分が後ろめたくもあった。
大阪にいることも何だか嫌だった。
すべてが嫌だった。
そんな時に、『日本の悲劇』のコピー台本を目にした。
書きかけのノートなどと一緒に床に積まれていたのだ。
取り出して、読みだした。
やはり、作品の体をなしていないと思った。
破り捨てた。

それから数日後、こんどはパソコンのメモリーに入っていた『日本の悲劇』と出会った。
いきなり、パソコン上で、手を入れた。
極端な食事制限をしていると数時間パソコンに向かっているだけで、もうへとへとになる。
そういうときは、ベッドに横になる。
知らない間に、眠っている。
毎日がその繰り返しだ。
30分デスクに向かい、数時間、ベッド。
一日の大半をベッドで過ごし、後は、食事をしているか、デスクに向かっているかだ。
考えのまとまらないまま、指だけは、文字を打ち込んでいく。
本当に薄い台本が、2時間にはなるだろう脚本に変わった。
それからボクはこの脚本を、一度も読み返すことなく、仲代さんに送った。
返事は、直ぐに来た。
「ぜひ、やりましょう」
とのことだった。
それから半年、この映画は撮影に突入することになった。
うんざりするほど長い時間だった。

今、ボクは、この映画を自分の遺書だとは思っていない。
遺書とするには、途方もない金がかかってしまった。
遺書なんてものは、紙とペンで書くもので、もちろん映画にするもんじゃない。
しかし、だからと言って、この映画が、どれだけの人に観てもらえるのか?
多分、ほんのわずかな人にしか観られない映画になるんだろう。
いや、むしろ、ボクは、ほんのわずかな人にしか観てもらえないような映画にするつもりだ。
ヒットもクソもありゃしないのだ。
どうでもいい。

持てる力も、もうわずかしかない。
才能はとっくに枯渇している。
野心も欲もなくなった。
自分が観たい映画を作る気もない。
ただ、作るだけだ。

この映画が完成し、仲代達矢演じる不二夫の死に様に、滑稽さを見出してくれたら、幸いだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿

2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...