2012年1月4日水曜日

2012/1/4

脚本でようやく食えるようになつたころ、NYに行って、公開されたばかりの「スピード」を観た。まるでライブハウスのように観客が大いに沸いていた。毎日同じ映画館に通い何度も「スピード」を観た。巧みなシナリオに舌を巻きもながらも、どうして観客がこうも沸くのか、理解できなかったからだ。
そのうちに、映画の作り手と観客が駆け引きしていることに気付いた。次のシーンでこうなるだろうと観客は予測するが、そうはならずにはぐらかされ、次の瞬間不意打ちを食らわす。あたかも、スクリーンの裏に、監督が潜んでいて何通りかのシナリオを客の反応ごとに瞬時に入れ替えているのではないか?と思えるほどだ。しかしもちろんそんなことはない。これはすべて、あらかじめ作られたものなのだ。しかし判らなかった。どうしてこんな脚本が書けるものなのか? この映画の監督と脚本家は相当の強者だと思った。以来、何度も「スピード」を見直し、僕なりに研究した。いつものシナリオを書く過程の
逆をやってみた。つまり、映画の記憶を頼りにシナリオを起こし、今度はそれを小バコにし、大バコにしていく。最後は、短いストーリーにする。そうやって映画を自分なりに解体してみたのだ。なるほどと思うところが何か所か見つかった。アクション映画のシークエンスは、少なければ少ないほど良いと
言うのは判っていたが、(「ターミネーター2」や「エイリアン2」)ワンシークエンスでラストまでと言うのはそう滅多にあるもんじゃない。一切のダレ場がないのだ。これには驚いた。と言うよりも自分の不勉強さを恥じた。こんな映画を作る奴がいる以上とても商売にはならないと落ち込み廃業を考えた、
帰国して、何か月か後に、「スピード」が日本で公開された。もちろん、この映画は日本でも話題になった。ボクは、もう一度、劇場に行って、この映画を観た。NYでは沸きに沸いたこの映画だったが、日本の劇場では、静まり返ったままで、丸で別の映画を観ているような錯覚に陥った。こんなことはいつも言われることで珍しくもないのだが、日本の観客とアメリカの観客は、映画の見方がまるで違う。どちらがいいとは一概には言えない。それでも、ボクが廃業もせず、それから何年もの間、脚本で食べていけたのは、(テレビの世界だったが)、見せる相手が日本人だったからに違いない。それでも何とか、ない才能を駆使して、ワンシークエンスでシナリオを書いてみようと思った。これは、思いのほかエネルギーの要る作業で、通常のシノプシスから大バコ、小バコといった過程を踏んでの言わば日本式のシナリオ作法ではとうてい成し得ないことに気付いた。アイデアが浮かんだら、
とにかく、書く。そのシーンの終わりが来る随分と前に、次のその次の、更にその次のシーンが浮かんでなければならず、メモをしながら書き進めた。登場人物の一挙一動にハラハラしながら(登場人物がそのシーンの次の台詞で何を言い出すかわからないからだが)、
「ああ、またこいつこんなこと言いやがって!」と泣く泣く、徹夜してメモした以降の構想を破り捨ての繰り返し。そうやって何本かのシナリオを書き、ピンク映画で、(ピンクの場合は絡みのシーンを何か所か入れなければならないので、ワンシークエンスというわけにはいかないが)試してみた。
サトウトシキ監督と組んだ何本かの映画は、そんな試行品だったが、(良いか悪いかは別にして、)ボク流のシナリオ作法の始まりだった。どんな映画も、全てのシーンにサスペンスが潜んでなければならないと思う。それをボクは、「スピード」から。NYの「スピード」を観た観客から学んだ。
年頭にあたり、自戒を込めて、書いてみました。


ツイッターより、

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