スキップしてメイン コンテンツに移動

2011年の事と2012年の事、

去年、ボクは二本の映画の撮影をした。
一本は既に完成した、『ギリギリの女たち』で、東京国際映画祭がワールドプレミアとなった。
もう一本は、『日本の悲劇』と題するもので、こちらの方は、年末にボクの作業は終了し、一月の初号を待つのみだ。
どちらも、昨年の311の大震災が契機となって、制作されたもので、もし、311の大震災がなかったら、作られることはなかっただろう。
いや、311の大震災がなかったら、ボクは、『春との旅』を最後に、映画を作ることなどなかったに違いないのだ。
考えることあって、大阪に居を構えたのは、昨年一月だった。
一昨年は、『春との旅』の公開があって、一年中バタバタしていた。
日本だけではなく、世界中を飛び回っていた。
それは、昨年の5月ぐらいまで続いた。
馴染みの映画祭に参加していたのだ。
いつもなら一人で行く映画祭に、奥さんもついてきてもらった。
ひとりではとてもじゃないが、長い飛行機での旅は、もちそうになかったからだ。
そのぐらい精神的に参っていた。
体力もどんどん衰えていき、駅前の喫茶店に行くのでさえ難儀で、翌日に、そして、また、その翌日にと何かと理由をつけて持ち越していた。
そんな体たらくだ。
映画なんか作れるわけがなかった。
それでも、何かしていないといられない。
たまたまSさんからライブをやらないかとのお誘いがあり、自信はなかったがそれに乗った。
東京で何度か、Sさんとライブをした。
何度目かのライブ。
そして、これが最後と思っていたライブの日が、311の大震災の日だった。
ボクは飯田橋の喫茶店で、震災を経験し、直ぐにSさんと連絡をとったが電話は繋がらず、ライブハウスのある吉祥寺まで行くすべもなかった。
ライブは中止になった。
ボクと奥さんが泊まっていた九段会館は、震災の被害に遭い、その日から閉鎖されてしまい、ボクたちは事務所で雑魚寝して、翌々日に、大阪に戻った。
その後のことは、ここで書くまでもない。
数か月間は、テレビを食い入るように見つめ、東北の太平洋沿岸の震災の爪痕を毎日のように見、そして、原発事故による放射能汚染のニュースに腹を立てていた。
映画を作ることで、何かが変わるとはもちろん思っていなかったが、映画を作ってきた人間として、今、この時期に映画を作らないと言うのにも、理由はなかった。
動かない体をなんとか駆使して、しかも被災地の気仙沼市唐桑で、まず、小さな映画を作ってみようと思った。
SNSでKさんと知り合ったのが映画作りを現実のものとした。
『日本の悲劇』の制作は、9月から始まった。
脚本は既に一年前に書かれたもので、用意されていたが、とても映画になるような題材ではなかった。
震災以降、その脚本に加筆した。
何とか形が見え始めたのは、やはり震災を踏まえたその後のことで、311がなければ、永久に陽の目は見なかったに違いない。
ボクにとって、映画を作れる状況にあると言うのは。そして、映画を作ることが出来たということは、幸せなことだが、そのきっかけが、不幸な大震災にあることを思うと、喜んでばかりもいられない。
震災を扱っているからには、興行会社が二の足を踏むのは判り切ったことだし、果たして公開にこぎつけられるかどうか、微妙なところだ。
それでも、いつかは、皆さんに観ていただける時が来ると信じている。
映画館が駄目なら、DVDか配信でも良いのではないかとボクは思っている。

二本の映画を作って、少しは体力も回復してきた。
しかし、その次の映画を作ろうという気にはいまのところなれない。
いや、作ろうと言う気持ちはあるのだが、何か、今までしてきたこととは全く違う方法論で、映画を作ってみたくて仕方がない。
それは、個人映画とよぶようなもので、公開を前提としたものではないのか?
それとも、純然たる娯楽映画なのか…?
考える時間は十分にあるのだから、せいぜい、考えて結論を出そう。
春になったら、唐桑での生活を再開しようかとも考えている。
一年後の被災地に身を置いてみたいと思う。
やはり、ボクは、あそこからしか始められないように思うのだ。




コメント

このブログの人気の投稿

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…