2011年5月15日日曜日

2011/05/12



数日前に、『酔いがさめたら家に帰ろう』と言う映画を観ていて、ひとりで笑い転げた。映画を観て、こんなに笑い転げたのは久しぶりだ。
とても自虐的な笑いだったが、笑ったことは笑った。
大体ボクは天邪鬼なので、誰もが笑うような映画はあまり観ないし、観たところで、他の人と別のところで、一人で笑っていたりしてる。
この映画も、奥さんと一緒に観たのだけれど、笑い転げるボクの顔を見て、とても不思議そうな顔をしていた。
アル中となり、精神病院に入院し、挙げ句の果てにガンを患い、死んでしまう主人公の映画を、こうまで笑って観ていられるのは、やはり、監督の演出力だろう。
東陽一監督は、テレビの書評番組で見る限り、とても知的で、批判精神に富み、シリアスな方だと思う。作られる映画も、バランス感覚に富んでいて、何を観てもハズレはないようだ。
だから、レンタルビデオで四本1000円の一本には確実に入る映画なのだが、では、何がどうあっても観る映画なのかと言うとそうではなくて、あくまで、(こればボクの場合だが)四本1000円の内の一本でしかないようだ。
これはとても失礼なもの言いだ。
しかし、あえて書くが、ここには、ストーリーもあり、ディティールの描き込みの巧みさがあり、しかも、演技者たち。特に、浅野忠信の見事な演技はあるものの、映画的な新しさ、試みは、皆無だ。精神病院の部分を少しでも作り替えれば、テレビの二時間ドラマでも、立派に通用するような演出。
事実、この話は、NHKでドキュメンタリーとして、放送されている。
日本の巨匠と呼んでも過言ではない東陽一監督が、どうしてこのような観やすい映画を今更の様に作るんだろうか?
いや、この映画をボクは否定している訳ではないのだけれども、同業の末端にいる身として、この問題は、東陽一監督だけの問題ではなくて、日本映画全般の問題でもあるのだ!!
でも、どう打開すべきかは、判らない。
判りたくもない。
精一杯だからだ、自分のことだけで。どんな巨匠だからって、その人の気持ちになって考えることは出来ないし、したいとは思わない。
敵は、ひとりでも少ない方がいいのだから。
でも、それは冷たい表現だ。
いや、冷たくていいのだ。
所詮、村の住人たちだ。
互いに傷をなめ合えば、生きて行けるのだろう。
ボクは、アウトサイダー。
村人ではない。
村人ではないのだから、村人のことを心配する筋合いじゃない。
でも、愛はどうなる?!
「もう頬づえをつかない」は、ボクに何をもたらしたのか?!
「四季 奈津子」は、ボクに何をもたらしたのか?!
それらの映画を観たボクの衝撃は大きかった。
ボクの中に、東陽一監督の名は、焼き付き、消え去る事は出来ないのだ。
では、ボクは、そんな青年時に観た衝撃作の監督の新作を、確認の為に観たのか?
ああ、まだ作られているんだなあと感傷に耽る為に観ていたのか?
違うだろう。そんなんじゃない筈だ。
ボクは、確かに、「四季 奈津子」を観て、トリュフォーだあ!! と叫んだではないか!!
ゴダールだあ!! と叫んだではないか!!
あれはただの錯覚だったのか?! それとも、流行の手法を取り込んだだけのことだったのか?!
それはご本人に聞いてないので判らないが、そんなかつての斬新な手法が、この映画では皆無だったのが、悲しい。
いや、哀しい。

若い人たちの作るHDの映画もどきが、当たり前になるのも哀しいが、巨匠とボクが思う人たちのこの体たらくも、哀しい限りだ。
山田洋次監督の「おとうと」なんかは、買って観たDVDを叩き付けたほどだ。
しかし、今考えるとねこのご両人、脇役の使い方の残酷さは、共通してるな。
三池監督曰く、
「主役はいいんですよ。それなりの役を与えられている訳だし、見せ場もふんだんにある。僕は、現場で、脇役をどう引き立たせるかしか考えてないんです。多少、話がかわろうが、やはりね、脇役を、僕は大事にしたいんですよね。苦労してきたんだから…」
毎日映画コンクールの時に隣に座った三池監督がそうボクに言っていた。
素敵だなと思った。
ボクは、そんなに沢山、脇役の出て来る映画を作った事がないから判らないんだけど、三池監督の言ってることは判る。
「酔いがさめたら〜」の精神病院のシーンでの、台詞のない脇役たちの人生をなぜか、見終わった後、考え続けていた。

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