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2011/05/12



数日前に、『酔いがさめたら家に帰ろう』と言う映画を観ていて、ひとりで笑い転げた。映画を観て、こんなに笑い転げたのは久しぶりだ。
とても自虐的な笑いだったが、笑ったことは笑った。
大体ボクは天邪鬼なので、誰もが笑うような映画はあまり観ないし、観たところで、他の人と別のところで、一人で笑っていたりしてる。
この映画も、奥さんと一緒に観たのだけれど、笑い転げるボクの顔を見て、とても不思議そうな顔をしていた。
アル中となり、精神病院に入院し、挙げ句の果てにガンを患い、死んでしまう主人公の映画を、こうまで笑って観ていられるのは、やはり、監督の演出力だろう。
東陽一監督は、テレビの書評番組で見る限り、とても知的で、批判精神に富み、シリアスな方だと思う。作られる映画も、バランス感覚に富んでいて、何を観てもハズレはないようだ。
だから、レンタルビデオで四本1000円の一本には確実に入る映画なのだが、では、何がどうあっても観る映画なのかと言うとそうではなくて、あくまで、(こればボクの場合だが)四本1000円の内の一本でしかないようだ。
これはとても失礼なもの言いだ。
しかし、あえて書くが、ここには、ストーリーもあり、ディティールの描き込みの巧みさがあり、しかも、演技者たち。特に、浅野忠信の見事な演技はあるものの、映画的な新しさ、試みは、皆無だ。精神病院の部分を少しでも作り替えれば、テレビの二時間ドラマでも、立派に通用するような演出。
事実、この話は、NHKでドキュメンタリーとして、放送されている。
日本の巨匠と呼んでも過言ではない東陽一監督が、どうしてこのような観やすい映画を今更の様に作るんだろうか?
いや、この映画をボクは否定している訳ではないのだけれども、同業の末端にいる身として、この問題は、東陽一監督だけの問題ではなくて、日本映画全般の問題でもあるのだ!!
でも、どう打開すべきかは、判らない。
判りたくもない。
精一杯だからだ、自分のことだけで。どんな巨匠だからって、その人の気持ちになって考えることは出来ないし、したいとは思わない。
敵は、ひとりでも少ない方がいいのだから。
でも、それは冷たい表現だ。
いや、冷たくていいのだ。
所詮、村の住人たちだ。
互いに傷をなめ合えば、生きて行けるのだろう。
ボクは、アウトサイダー。
村人ではない。
村人ではないのだから、村人のことを心配する筋合いじゃない。
でも、愛はどうなる?!
「もう頬づえをつかない」は、ボクに何をもたらしたのか?!
「四季 奈津子」は、ボクに何をもたらしたのか?!
それらの映画を観たボクの衝撃は大きかった。
ボクの中に、東陽一監督の名は、焼き付き、消え去る事は出来ないのだ。
では、ボクは、そんな青年時に観た衝撃作の監督の新作を、確認の為に観たのか?
ああ、まだ作られているんだなあと感傷に耽る為に観ていたのか?
違うだろう。そんなんじゃない筈だ。
ボクは、確かに、「四季 奈津子」を観て、トリュフォーだあ!! と叫んだではないか!!
ゴダールだあ!! と叫んだではないか!!
あれはただの錯覚だったのか?! それとも、流行の手法を取り込んだだけのことだったのか?!
それはご本人に聞いてないので判らないが、そんなかつての斬新な手法が、この映画では皆無だったのが、悲しい。
いや、哀しい。

若い人たちの作るHDの映画もどきが、当たり前になるのも哀しいが、巨匠とボクが思う人たちのこの体たらくも、哀しい限りだ。
山田洋次監督の「おとうと」なんかは、買って観たDVDを叩き付けたほどだ。
しかし、今考えるとねこのご両人、脇役の使い方の残酷さは、共通してるな。
三池監督曰く、
「主役はいいんですよ。それなりの役を与えられている訳だし、見せ場もふんだんにある。僕は、現場で、脇役をどう引き立たせるかしか考えてないんです。多少、話がかわろうが、やはりね、脇役を、僕は大事にしたいんですよね。苦労してきたんだから…」
毎日映画コンクールの時に隣に座った三池監督がそうボクに言っていた。
素敵だなと思った。
ボクは、そんなに沢山、脇役の出て来る映画を作った事がないから判らないんだけど、三池監督の言ってることは判る。
「酔いがさめたら〜」の精神病院のシーンでの、台詞のない脇役たちの人生をなぜか、見終わった後、考え続けていた。

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…