スキップしてメイン コンテンツに移動

12/11

最近、また、一日一本ぐらいの割りあいで、映画を観ている。
東京国際映画祭は、あいにく行くことが出来なかったが、東京フィルメックスには、何回か、行った。
ボクは、映画を作っていながら、監督の名前がなかなか覚えられず、それは、歳のせいとか、ぼんやりとした毎日を送っているせいとかいろいろ原因はあるんだろうが、イランの巨匠とギリシャの巨匠の名を混同してしまったりする。
ツァイ・ミンリャンとジャ・ジャンクーも、顔を浮かべれば判るのだが、映画の題名だけだと、どちらの監督作だったか、立ち止まって、頭を整理しないと、口から出た名前が、逆の人の名前だったりするから、危ない。
その日は、オープニングの日で、塚本晋也監督『野火』を観てから、もう一本、ジャ・ジャンクー監督のドキュメンタリーがあったよなあと思い込んでいて、受け付け近くに立っていた、Iさんに「これからやるジャ・ジャンクーの映画、観たいですが、見られますか?」なんて聞いてしまった。「ああ、ツァイ・ミンリャンの『西遊』ですよね。でしたら、こちらで、IDカードを提示していただければ」と言われて、「はい、そうです」とかと、答えてしまい、チケットを受け取り、まじまじと見て、間違っていたことにようやく気付いた。
ツァイの映画は、ずっと見て来たし、彼の変遷する様を、ある種、驚きをもって見て来たのだが、どうも今回のは、あまり見る気がしなかった。
それが美術館から依頼されて作った映画だからだ。
いわゆるアートである。
アート系とかとは違う趣きなのは、歴然としている。
チケットと交換はしたものの、どうしたものかとしばらく考えたが、見ることにした。
これもいい刺激だろうと思ったからだ。

映画は、予想通り、アートだった。
ワンカットが延々と続く。
そこでは、僧侶の衣裳をまとった男が、超スローモーションで歩くのだが、それ以上のことは起こらないし、それ以下のことも起こらない。
面白いも面白くないもない。
ただ、少なからず、ボクは、動揺し、衝撃を受けた。
ツァイの映画に対する姿勢、向き合い方が、これほどまでに、突き詰められたことにだ。
確かに、この映画は、観て楽しむ映画ではないし、考えさせられる映画でもない。
感じる映画であり、思索にふける映画なのだ。
そして何よりも、マルセイユの街の、あちこちが、ドキュメンタリーのように、定点観測されていくのには、唸った。

そもそも、映画にストーリーは必要なのか?
それは、若いころ、抱いた疑問で、それは映画を作るようになってからも、ずっとボクの中に疑問として、とどまっている。答えは、見つからない。
ただボクは、ストーリーに感動して、映画を作りたいと思ったわけではなく、映画の中のワンカットや、構図、延々と交わされるわき道の会話に、今まで観たこともない、映画体験をし、ボクにも出来るかも知れないと思い、作っている。
しかし、それは、様々な事情で、なかなか思うようには実現できてない。

映画はストーリーだ。
話が面白ければ、それでいいんだと、割り切れれば、ボクの映画も少しは変わっていくだろうし、お客さんも、もっと増えるに違いない。
一般のお客さんが、その映画のワンカットに、戦慄したりはしないだろうし、ただの街角の日常風景を延々と見せられても、何を映してるんだと、腹が立つばかりだろう。
しかし、なかなかストーリーテリングに徹しきれない。
それは、ストーリーが巧く作れないと言うのが、正直なところだ。

ツァイの映画作家としての突き詰め方には、頭が下がる思いだ。
その日は、深くうな垂れながら、帰宅したのを覚えている。

数日後、まだ『西遊』のことが頭から離れないボクは、キム・キドクの『ONE ON ONE』を観た。
キムも映画作りにおいて、独特の変遷をたどっている。
前作の『メビウス』で花開いた感のあるキムだが、この映画も、凄まじい開き直りに、圧倒された。
数年前までのキムには、まだ、映画を信じているような、観客と自分とをつなぎとめてるものがあったのに、この映画では、それが見事に断ち切られている。
礼儀正しいキムが、インタビューやQAで、どんなにへりくだろうと、映画は、徹底して荒々しく、ふてぶてしい。
映画は消耗品で、排泄物だとも言わんばかりだ。

これには、多分、デジタル化が大きく影響しているのではないかとボクは思う。
言い方を変えれば、フイルムからデジタルに変わって、映画は、すでに、映画ではなくなっていると言う事を、彼は、痛感しているんだろう。
かつての情緒は、そこにはない。ただただ、荒々しく、情け容赦なく、荒唐無稽の先にあるリアルに向って突き進む。
ツァイとは真逆の方法論だが、変遷の仕方は、良く似ている。
つまり、突き詰めると言う事だ。
この映画を観て、最初に感じた腹立たしさは、自分に向っている腹立たしさだ。

この二本の映画を観て、これほどボクの心に深く突き刺さった経験はないだろう。
何をやってるんだ、お前は!
そう繰り返し、呟く。
それだけだった。

映画祭の最終日に、目当てだったウォルター・サレス『ジャ・ジャンクー・フェンヤンの子』と言うドキュメンタリーを観た。
まだ完成版ではないとの断りの元、映画は始まった。
ここに描かれる、そして、現在のジャは、44歳だと言う。
キムとは違った形での、ふてぶてしさを内存したこの監督の素顔は、終始とても優しく穏やかだ。
この映画が最後で良かったと、胸を撫で下ろした。
まだ、映画を信じてる作家が、そこにいた。
いつ壊れて行くのか、それはわからないが、形作られたものは、壊すか、壊れて行くかしかないようだ。
壊すまい壊すまいとしても、壊れていく。
繋ぎとめる術はない。
しかし、映画を形成し、壊すことが出来るのも、限られた人たちの特権であり、それは、才能だ。
どうやら映画には、作り手の自分さえもあらぬ方向に引っ張っていく、なにか、得体の知れない、魔力が潜んでいるように思う。




コメント

このブログの人気の投稿

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…