2014年12月12日金曜日

12/11

最近、また、一日一本ぐらいの割りあいで、映画を観ている。
東京国際映画祭は、あいにく行くことが出来なかったが、東京フィルメックスには、何回か、行った。
ボクは、映画を作っていながら、監督の名前がなかなか覚えられず、それは、歳のせいとか、ぼんやりとした毎日を送っているせいとかいろいろ原因はあるんだろうが、イランの巨匠とギリシャの巨匠の名を混同してしまったりする。
ツァイ・ミンリャンとジャ・ジャンクーも、顔を浮かべれば判るのだが、映画の題名だけだと、どちらの監督作だったか、立ち止まって、頭を整理しないと、口から出た名前が、逆の人の名前だったりするから、危ない。
その日は、オープニングの日で、塚本晋也監督『野火』を観てから、もう一本、ジャ・ジャンクー監督のドキュメンタリーがあったよなあと思い込んでいて、受け付け近くに立っていた、Iさんに「これからやるジャ・ジャンクーの映画、観たいですが、見られますか?」なんて聞いてしまった。「ああ、ツァイ・ミンリャンの『西遊』ですよね。でしたら、こちらで、IDカードを提示していただければ」と言われて、「はい、そうです」とかと、答えてしまい、チケットを受け取り、まじまじと見て、間違っていたことにようやく気付いた。
ツァイの映画は、ずっと見て来たし、彼の変遷する様を、ある種、驚きをもって見て来たのだが、どうも今回のは、あまり見る気がしなかった。
それが美術館から依頼されて作った映画だからだ。
いわゆるアートである。
アート系とかとは違う趣きなのは、歴然としている。
チケットと交換はしたものの、どうしたものかとしばらく考えたが、見ることにした。
これもいい刺激だろうと思ったからだ。

映画は、予想通り、アートだった。
ワンカットが延々と続く。
そこでは、僧侶の衣裳をまとった男が、超スローモーションで歩くのだが、それ以上のことは起こらないし、それ以下のことも起こらない。
面白いも面白くないもない。
ただ、少なからず、ボクは、動揺し、衝撃を受けた。
ツァイの映画に対する姿勢、向き合い方が、これほどまでに、突き詰められたことにだ。
確かに、この映画は、観て楽しむ映画ではないし、考えさせられる映画でもない。
感じる映画であり、思索にふける映画なのだ。
そして何よりも、マルセイユの街の、あちこちが、ドキュメンタリーのように、定点観測されていくのには、唸った。

そもそも、映画にストーリーは必要なのか?
それは、若いころ、抱いた疑問で、それは映画を作るようになってからも、ずっとボクの中に疑問として、とどまっている。答えは、見つからない。
ただボクは、ストーリーに感動して、映画を作りたいと思ったわけではなく、映画の中のワンカットや、構図、延々と交わされるわき道の会話に、今まで観たこともない、映画体験をし、ボクにも出来るかも知れないと思い、作っている。
しかし、それは、様々な事情で、なかなか思うようには実現できてない。

映画はストーリーだ。
話が面白ければ、それでいいんだと、割り切れれば、ボクの映画も少しは変わっていくだろうし、お客さんも、もっと増えるに違いない。
一般のお客さんが、その映画のワンカットに、戦慄したりはしないだろうし、ただの街角の日常風景を延々と見せられても、何を映してるんだと、腹が立つばかりだろう。
しかし、なかなかストーリーテリングに徹しきれない。
それは、ストーリーが巧く作れないと言うのが、正直なところだ。

ツァイの映画作家としての突き詰め方には、頭が下がる思いだ。
その日は、深くうな垂れながら、帰宅したのを覚えている。

数日後、まだ『西遊』のことが頭から離れないボクは、キム・キドクの『ONE ON ONE』を観た。
キムも映画作りにおいて、独特の変遷をたどっている。
前作の『メビウス』で花開いた感のあるキムだが、この映画も、凄まじい開き直りに、圧倒された。
数年前までのキムには、まだ、映画を信じているような、観客と自分とをつなぎとめてるものがあったのに、この映画では、それが見事に断ち切られている。
礼儀正しいキムが、インタビューやQAで、どんなにへりくだろうと、映画は、徹底して荒々しく、ふてぶてしい。
映画は消耗品で、排泄物だとも言わんばかりだ。

これには、多分、デジタル化が大きく影響しているのではないかとボクは思う。
言い方を変えれば、フイルムからデジタルに変わって、映画は、すでに、映画ではなくなっていると言う事を、彼は、痛感しているんだろう。
かつての情緒は、そこにはない。ただただ、荒々しく、情け容赦なく、荒唐無稽の先にあるリアルに向って突き進む。
ツァイとは真逆の方法論だが、変遷の仕方は、良く似ている。
つまり、突き詰めると言う事だ。
この映画を観て、最初に感じた腹立たしさは、自分に向っている腹立たしさだ。

この二本の映画を観て、これほどボクの心に深く突き刺さった経験はないだろう。
何をやってるんだ、お前は!
そう繰り返し、呟く。
それだけだった。

映画祭の最終日に、目当てだったウォルター・サレス『ジャ・ジャンクー・フェンヤンの子』と言うドキュメンタリーを観た。
まだ完成版ではないとの断りの元、映画は始まった。
ここに描かれる、そして、現在のジャは、44歳だと言う。
キムとは違った形での、ふてぶてしさを内存したこの監督の素顔は、終始とても優しく穏やかだ。
この映画が最後で良かったと、胸を撫で下ろした。
まだ、映画を信じてる作家が、そこにいた。
いつ壊れて行くのか、それはわからないが、形作られたものは、壊すか、壊れて行くかしかないようだ。
壊すまい壊すまいとしても、壊れていく。
繋ぎとめる術はない。
しかし、映画を形成し、壊すことが出来るのも、限られた人たちの特権であり、それは、才能だ。
どうやら映画には、作り手の自分さえもあらぬ方向に引っ張っていく、なにか、得体の知れない、魔力が潜んでいるように思う。




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