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12/15

先日、渋谷に行った。
渋谷に行くのは、久し振りで、確か、『日本の悲劇』の公開時以来ではないだろうか?
しかも、そのころは、歩いてユーロスペースまで行くのがやっとで、まわりを見ることも出来なかった。
今、前よりも体調が良くなって、人並みに辺りに目をやり、町の様子を観察できるぐらいになってきて、この町の変わり様に愕然とした。
町が変わったと言うよりも、人が変わったように感じた。

渋谷へ行ったのは、試写を観るためだった。
『仲代達矢 役者を生きる』と言うタイトルの映画を、アップリンクで、観る。
それが目的だったから、JRから降りて、試写場まで行くだけの事だから、あちこちを散策したわけではない。
それでも、道行く人の変わり様は、判った。
怖くて、道を歩けないなと思った。
それぐらい恐怖感を覚えた。

飯塚秀孝監督の『仲代達矢 役者を生きる』は、舞台「授業」に取り組む仲代さんを追ったもので、彼の芝居に向けての鬼気迫る準備段階がおもろかったが、ドキュメンタリーとしての価値よりも、仲代さんのある時期を記録したものとしての価値の方が大きいように感じた。
ドキュメンタリーの一翼としては、充分成立しているには違いないが、物足りなさも、なくはなかった。
ボクだったら…と、いつも思う。
ボクだったら、どう撮ったろうか? と。
しかし、あまりその先は考えないようにした。
「おれのドキュメンタリーは、一本だけでいいんだよ」
と、以前、高田渡さんに言われたからだ。

実際、仲代さんと言う人を、それほど良く知っているわけではない。
もちろん二本の映画に出演していただき、親しくはさせていただいている。
しかし、だからと言って、役者と監督と言う立場での親交であり、それ以上は、踏み込まないし、踏み込んでほしくもないだろう。
だから、ボクに、仲代さんのドキュメンタリーは、撮れないと思う。

どこかドキュメンタリーと言うものは、対象となるものを暴くと言う使命があるように思う。
その暴き方に、作り手と対象となる人物との親密度が、現れる。
『仲代達矢 役者を生きる』には、その親密度がはかれない、寂しさがある。
かつてNHKで放送した仲代さんのドキュメンタリーがあったが、スタンスとしては全く似たスタンスだった。
付かず離れずと言うか…。

映画を観て、外に出た。
JRまでの道がひどく遠く感じた。
また、あの人ごみの中を歩くのか…。
嫌な感じがした。
だから、早々に、地下にもぐり、地下鉄で、帰宅することにした。
帰宅と言っても、地元の飲み屋に立ち寄って、焼酎を一杯、ひっかけての帰宅だが。

焼酎のロックをちびりちびりやりながら、考えは、また先程見た映画に向っていた。
インタビューの中で、「仲代劇堂」を作ったのは、62歳の時だったと言っていたことを思い出し、俺もまだやれるかもしれないと思ったり、喘息の持病から、酸素吸入器をつけている姿などをためらいなく晒す仲代さんに、随分経ってから、感激と言うか、感動が、じわじわと襲い、酒の力も手伝って、涙がこぼれて来た。

「継続は力なりだ」
は、『歩く、人』の時に、緒形拳さんに言ってもらったセリフだが、まさに、継続は力なりなのだ。
誰もが、仲代達矢になれるわけではない。
いや、どんなに継続しても、仲代達矢には、なれはしない。
彼になるには、凄まじいばかりの努力が必要だ。
それにもちろん才能も。
そして、運も。知性も。

しかし、「継続は力なり」を信じて、努力し、続けていさえすれば、運や知性は、きっと身につくに違いない。そうすれば、仲代さんにはなれなくとも、あなたのなりたかった人に、近付くことは出来るかも知れない。
それだけは、信じていいのではないか。





コメント

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Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
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今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
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客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…