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12/04

あっと言う間に、師走に突入した。
本当に、あっと言う間だった。特に、今年は。
今年の1月6日、ボクは、60になった。
還暦である。
気が付いたら、還暦。そんな気持ち。
そして、ボクの定期的な病院通いが始まったのも、その少し前からだった。
人生が変わった。
そのころはとっくに死んでしまっているだろう、次の年のことなんかを、ぼんやりと考えて、感慨にふけっていた。
でも、今、まだボクは生きている。
来年も、ボクは、生き続けるのかもしれない。
死ぬ兆候が、表れたはずなのに、そう簡単に殺してなるものかと、救命策を施して、ボクは、生かされている。

昨夜、家人と話した。
「そう言えば、映画の公開もなく、映画の制作もなかったのは、今年が初めてじゃなかったかな」と。
家人は、ノートを取り出して、ボクがデビュー作を作り、知人の勧めで、作った会社「モンキータウンプロダクション」の創設の頃からの年表のようなものを見て行った。
「ほんとだ」
何ページかのその年表のページを一年一年確認してから、家人が言った。
「今年が、初めて」
「だろ?」

ちょっと、戦慄した。
何をやってるんだと言う気持ちになった。
でも、それとは反対に、やっと一年、休めたと言う気持ちもあり、仕方のないことだとも思った。

一本目で、賞を貰い、二本目がカンヌで掛かって以来、一年に一本は、映画を撮ると自分に誓いを立てた。
でなければ、映画監督として生きてることにはならないと思っていた。
あくまで、映画作りは、仕事であり、事業なのだと。
とにかく企画を生んで、シナリオにし、制作する。
それも、最低、一年に一本は。

そして、それを実行に移していったはずだった。
しかし、公開まで手掛けなくてはならないボクにとって、一年に一本の映画制作は、不可能だと知った。
その年、映画を作れば、公開は早くて、次の年の、中頃になる。
全国での公開が終了するまでには、半年近くは掛かる。
幸か不幸か、大ヒットした映画は、ボクにはない。
だから、何年もその映画に引っ張られることはない。
その代わりに、自転車操業に近い。
映画を製作して、公開し、終わった途端、次の企画を考えて、シナリオにする。
どうしても、企画が浮かばない時は、書き溜めていたシナリオで、スポンサー探しをする。
スポンサーが見つからない時は、自主制作となる。
様々な不安が去来する。
果たして、これでやって行けるのか?
これで、採算がとれるのか?
深夜に、酒をがぶ飲みして、半ば、強引に、制作に踏み切る。
決めたんだから、作るんだ!
と自分に何度も言いきかせる。

キャストが決まり、スタッフが決まると、もう後には、引き返せない。
あとは、前に進めるだけだ。
他には何もない。

こんなことの繰り返しで、18年間を過ごした。
いや、17年間。
しかし、今年は、何もしていない。
今年も、あと残すところ、ひと月もない。
「今からなんて、とても無理だよな」
と、家人を前に、言葉にはしなかったものの、自分に言った。
「いや、出来るかもな」
と、カレンダーを睨む。
そのカレンダーには、仕事以外の、プライベートなことまでも書かれていて、その隙を縫って、映画を作るなんてことは出来そうもない。
でも、出来るような気持ちにもなる。
少し、興奮した。
それでも、やろう! 
というところまではいかなかった。
「うん。良いんだ、今年は。今年は、一年、休むと決めたんだから」
と、自分に念を押した。
ずっとボクなりに突っ走って来たんだ。今年一年は、休もう。頭の中を真っ新にして、来年に備えよう。

今年の初めに考えたことを、この日も、考えた。
そして、家人との話し合いは終わった。

残った、ひとりの時間はいつものように、机に向った。
アイデアの書かれたメモが散乱する机に向い、来年の事を思った。
長い間かかっていた雲が、気が付くと晴れて消えてしまっているような気がした。
この長い雲の間を、一体、どれくらいの間、歩いては立ち止まり、また、引き返しては、立ち止まり、してきたのか?
暗中模索と五里霧中と言う言葉が同時に出た。
ボクにとっては、同じ言葉のように感じた。

ツイッターで、岩田宏さんが亡くなったことを知った。
「同志たち、ごはんですよ」
の分厚い単行本のことを思い出す。
「そうだよ、まずは、ごはんですよ」
明日も、早く起きるだろう。
明日、ご飯を食べてから、来年の事を、ゆっくり考えることにしよう。






コメント

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Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…