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2010/04/27

「名人」読了。

その前に「圓生の録音室」読む。

こちらの方がボクには面白かった。

読んでいて、圓生という人のことがようやくわかって来たようだ。

金に細かいところとか、偏屈で、意固地なところなんか、親父に似てるな。

圓生が大阪生まれだということも、初めて知った。

先代の圓生の連れ子で、先代は義父ということになるのも、知らなかった。

「ぞろっぺい」という言葉も、久しぶりに読んだ。とにかくいろんなことを思い出す本だった。

素晴らしい。

×  ×  ×

ボクは子供の頃、叔父さんと一緒に暮らしていて、その叔父さんが浪曲と落語が好きだったので、主にラジオから流れるそれらを聴いて育った。

もちろん、叔父さんが好きだったのは、浪曲では広沢寅蔵の「清水次郎長」。天狗道場と言う素人の浪花節語りが出てきて、広沢寅蔵が評価を下すのだけど、そのどら声には、思いがけず優しさが感じられて、聴いているうちに寝入ってしまった。

落語は色々と聴いていたみたいだが、好きだったのは三遊亭圓生。圓生の人情噺を聴いていて、何度か涙を浮かべているのを目にした。それでボクは、必然的に、「清水の次郎長」と圓生落語、人情噺が好きになっていった。

とは言え、若いころは、あまり聴かなかったが、最近、しきりと聴くようになった。「圓生の録音室」を読んだのもそんな理由からだ。続けて、「名人」を読んだ。

でも、「名人」には、圓生の名前はあまり出て来ない。出て来るのは副題が示す通り、志ん生と志ん朝の親子のことだ。

ボクはなぜか、あまり志ん生が好きではなかった。何だかひどく聴きとりにくく、今思えば色気のある話ばかりのような気がして、子供だったボクにはわからなかったんだろう。その点、志ん朝の落語はテンポが速く、歯切れもいいので聴きやすかった。

「落語は圓生か志ん朝だな」

とボクは思っていた。

それは今も変わらない。

今はとりあえず、圓生の落語を聴き直そうと色々とCDとかDVDを集めている。

近いところで時間を作って、じっくりと聴いていくつもりだ。

シナリオの勉強をしている人には、落語は必須だ。真似をするんじゃなくて、体に沁み込ませるといい。話し言葉の洗練された形が落語にはあるようだ。

×  ×  ×

医者に行く。

一昨日も医者に行ったので、飛び石で行ったことになる。

雨だったので、嫌だったが、薬も切れたので、仕方なく行くことにした。

ボクは慢性腎不全なので、透析まで、時間の問題なのだが、透析をするようになると、行き当たりばったりの海外旅行など行けなくなるし、映画の撮影も、条件が色々とついて来る。そうなったら、半分引退を覚悟しなくちゃならない。

だから今のうちに、一本でも多く映画を作っておこうと思っているが、そう思うようになった途端に、なかなかアイデアが出てこなくなってしまった。

思いつくことはたくさんあるが、疲れやすくて机に向かってシナリオを書く気力がわいてこない。

それでも、「よし! やるぞ!」となれば、書きあげられるんだろうけど、体のことを気にしていては、映画なんか作れないので、命を縮めるのを覚悟してとりかからなくちゃならない。

今までも、映画を作る度に、命を縮めて来たけれども、『バッシング』あまりからは、それをまず覚悟して、とりかかるようになった。

そうなるとなかなか映画作りも妥協が出来なくなってくる。

満足がいかない場合、自分に腹を立てる。次に、スタッフ。

先日、『愛の予感』のメイキングらしきものを編集していて、スタッフを叱っている自分の姿を観て、呆れかえってしまった。

映像には残っていないが、現場はもっとひどいものだ。

後悔はしないが、反省はしている。

でも、また、始まるんだろうなと思うと気が重くなるのも確かだ。

小心者は仕様がない。

コメント

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Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
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客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
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ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…