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2011/03/18

広瀬隆さんの顔をひさしぶりに見た。

PCの画面でだ。

この人の顔を見るのは、本当に久しぶりだ。

前に見たのは、もう何年前だろうか?

30年近くたっているんじゃないだろうか? その頃、広瀬さんは、テレビにしょっちゅう出ていた。その頃から原発のことを話していた。

ボクは、真剣に聞き入れば聞き入るほど、どうしようもなさが先に立ってしまい、ついには、この人に拒絶反応を起こしてしまった。

顔はおろか名前を見ただけで、気分が悪い日が続いた。

そのうち、ボクは、広瀬さんの名前を忘れた。

その頃出された本が『東京に原発を!』だった。

もちろん読んではいない。

テレビで、「これを読め!!」とばかりに突き出された本を見て、とても買う気にはならなくなってしまった。

挑発的な本のタイトルも、好きではなかった。

とにかく広瀬さんがテレビでこの本の宣伝をしているのを見ていて、鼻白む思いだったのだ。

「原発の危険性を散々説いたあげくに、何だよ、結局は本の宣伝かよ」

そう思ったものだ。







30数年前と言えば、ボクは26、7歳。

とうに分別がついていてもいい年齢だ。でも、ボクはそうではなかった。

原発反対運動は、やがて国に揉み消されてしまうのだが、少なからずボクは、原発には反対していた。でも、広瀬さんの口調には、賛同できなかったのだ。自分さえも、否定することは出来ない。全否定は好きではなかった。

これはもう、好き嫌いの問題だ。他人に自分の人生を強制されたくはない。







その頃、ボクは郵便局で働いていた。

働きながら、日仏学院で、フランス語の勉強をしていた。

ボクがフランスに行くようになったのは、それから間もなくのことだが、その時のボクは、とにかくこの日本というどうしようもなく頑なで、マイノリティーの意見に耳を傾けず、文化らしいことには興味を抱かない国民性というものに、ほどほどうんざりさせられていたところだった。

「こんなところに居たら、息もできない」

いや、息苦しくて仕方がない。

そう思っていたのだ。

警鐘と警告、現体制に対する痛烈な批判。そればかりではどうにもならない。広瀬協になんか染まりたくもなかった。

ぺしゃんこになりそうな自分を、開放させてあげたかったのだ。







東北の大地震が起きて間もなく、福島の原発被害が報道された。

テレビを眺めながら、ボクが思ったことは、広瀬隆と言う人の名前だ。

「そういえば、あの人はどうしているんだろう」

と思った。

最初は、名前さえも覚束なかった。

「広瀬」までは覚えていたのだが、名前が咄嗟には出て来ない。

「隆」と言う文字を思い出してすぐに、パソコンに向かった。

ひょっとしたら亡くなっているのかも知れないと思ったからだ。

でも、まだ御存命だった。

昨年には、本も出している。それも原発に関しての本だ。

「ああ。それじゃ、広瀬さんがまたテレビに出るのは、時間の問題だな」

と思った。

現に原発が水素爆発を起こし、放射性物質をまき散らしているとの報が入ったときは、どこかのテレビ番組に、広瀬さんが出てないことはないと思ったのだ。

しかし、何日がたっても、テレビに広瀬さんは出てこない。

ボクは、何日か、広瀬さんを探し続けていた。

ようやく見つけたのは、誰かのツイッターでだった。YOUTUBEで、「朝日ニュースター」とかいう番組の録画がアップされていたのだ。

そこで、ボクは広瀬さんと30年ぶりに再会を果たした。

何回かに分かれたYOUTUBEの番組を見ていて、歳こそとられ、少しだけ分別あるもの言いをしてはいるものの、広瀬さんの発言は、以前と何も変わっていないように思えた。

突然、タイムスリップしたような錯覚に捕らわれた。

まさに、ボクは、どうしようもない不安を抱えた1980年代初頭に舞い戻ったかのようだった。

でも、そこに親しい人たちの顔はどこにもないのだ。

父や母や叔父。

ことごとくみんなこの世を去っている。

確実に30年の月日が経っていた。

パラレルワールドにいるようだった。

それでも、日本という国のどうしようもなさは何一つ変わってはいなかったのだ。

いや、むしろ悪化の一途を辿っているようにも思えた。

「明日なき世界教団」だなと思った。

「放射線の値をいくら計っても意味はないんですよ。放射線ではなくて、放射線物質があたりに飛散しているのが問題なんですから!!」

繰り返す広瀬さんの言葉だ。

その言葉を聞いて、ボクらは、どうしたらいいんだろう…?

「中国から風に乗って、死の灰が降る」

中国で核実験が行われた時、そんなニュースがテレビで報じられたことがあった。

ボクが中学生の頃だったように思う。

雨には放射性物質が含まれていると言う意味だ。

ボクらは少しの雨でも帽子を被ったり、傘をさしたりしていた。

でないと禿げになるとか云々。

そんなまやかしでも、当時は信じないではいられなかったのだ。

だからボクは未だに、雨が降ると、帽子を被ったり、傘をさしたりしている。

それは、雨に濡れてはいけないものだと覚えこまされていたからだ。

でも、今、水不足で、雨水や雪、川の水を汲んで、避難地の人たちは食器を洗ったりしているらしい。

それをテレビカメラが報道している現実には、言葉もない。



答えがない疑問だということはよくわかっている積りだが、ボクらは一体、どうしたらいいんだろう?

それでも生きていくために、家族を養うために金を稼いでいかなければならず、その為には、良心に背くこともしていかなければならない。

ボクは、「明日なき世界教団」の一員になる気はないのだ。

コメント

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「美味しいコーヒーをどうぞ」
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