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2011/03/25

東北関東大震災から二週間。

何一つ、手つかずのままの、実に長い二週間だった。

そして、今朝、東京から電話があった。

奥さんが出たのだけれども、畠中基博さんが亡くなったとの知らせ。

病死とのこと。

言葉もない。

基博さんには随分とお世話になった。

香川くんをキャスティングした時からの付き合いで、何本になるのか…、随分と沢山の映画のキャスティングに協力してくれた。

毎回、仕方なくだったけどね。それでも、一緒に映画を作りましょうと声を掛けてくれて、何度か打ち合わせをしたり、台本を書いたりもした。

紆余曲折あってそれらの企画は実現しなかったけど、そこのから派生して出来た映画が一本だけある。

『気仙沼伝説』だ。

この映画は、未だ公開されていないが、基博さんが企画したもので、『ええじゃないか日本』シリーズの内の一本として考えていたようだ。

東北の全ての県で一本づつ撮影しようという考えだった。

ボクが当初言われていたのは、福島編だったように思う。

宮城編の『気仙沼伝説』が終わったら、クランクインする予定だったのだ。

しかし、一発目の宮城編の台本がうまくいかなかった。

そこで、制作会社の××プロモーションのプロデューサーが入ってきて、別のライターを起用することになり、福島編の前に、宮城編を監督しないかとの話が来たのだ。

新たにプロデューサーが入ってからというもの、話の中味は、極端に変わっていった。知らない間に、ボクと基博さんの考えなどどこかにいってしまい、とんでもないシナリオが上がってきた。

読めば読むほど、わけのわからないシナリオだった。

「一体、これをどう撮ればいいんだ?!」

既に、キャスティングは決まっていて、ロケハンも制作部を中心に始まっていた。予算は、当初、潤沢にあった。そう聞いていた。

でも、いつものようにそれは次第に目減りしていって、クランクインしても、予算が下りなくなってしまった。

ファンド会社からの入金が全くないのだ。

内輪もめが始まった。

結果映画は、数か月後に完成はしたのだが、裁判沙汰となり、未だ公開されていない。

そこには、今は無くなってしまった気仙沼の風景が沢山撮られている。

ボクは、この映画がきっかけで、以後、気仙沼で日本の映画を作ることになったのだ。

だから作品の良しあしは別にして、ボクにとってこの映画はとても貴重なものだ。

基博さんもこの映画には随分と心血を注いだに違いない。自分の持ってる映画館で掛けようとしたこともあった。

でも、もうそれも果たせない。

数か月前、彼は映画館を手放したらしい。

それが経営不振からのものなのか、体の不調から来るものなのかはわからないが、おそらく後者が原因のことだろう。

数か月前にある企画を思い立ち、基博さんに電話したのだが、

「これからは××に話をしてくれませんか」

と、会社の若い人に振られてしまった。

とても、何かを始めるような状態ではなかったんだろう。

「入院してたんですよ」

とも言っていたので、ボクはてっきり糖尿病の数値が高くなったからだとばかり思っていたのだが…。

何とも、残念だ。

いや、本当に、残念でならない。

仕事を一緒には出来ないまでも、あと一度ぐらい、会って話したかった。

思えは基博さんと飲んだのも数えるほどで、一、二度のことだった。いつも事務所で会っていた。

会って、説得しなくちゃならないことがあったからだ。

でも、いつも決まって、その難題はあっと言う間に解決してしまう。

「いや、それは、あとは役者のスケジュールの問題だけですから」

それだけだった。

ボクがほっと胸をなでおろしていると、基博さんの独壇場が始まる。

二時間、三時間はざらだ。

昼過ぎに事務所を訪ねて、夕方までなんてこともしょっちゅうだった。

基博さんは、いつも決まって、夢を語った。

ニューヨークとパリに映画館を作るんだと言っていた。実際、基博さんはニューヨークやパリに行き、古い映画館を手に入れる交渉もしていたらしい。

いやはや。すさまじいエネルギーの人だった。

基博さんが亡くなったのは、三月二十三日らしい。

今日が告別式とのこと。

基博さんが眠る街からは500キロも離れているが、「お疲れさん」の言葉は届くだろうか?

本当に、お世話になりました。ありがとうございました!

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
でも、人は、いつか死にます。
父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…