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06/27

これと言って、何の変哲もない毎日を送っています。
変哲もないと言うのは、変哲もないと言うことで、ありふれていてつまらないと言うことなんだけど、では、毎日がありふれていてつまらないのかと言うと、なんだかんだで、バタバタしていて、つまらないことはつまらないのだけれども、知らないうちに一日が終わっていて、退屈と言うことでもないようです。
こちらに来てから、読書にも映画にもほとんど興味がわかず、見てもいないし読んでもいないのだけれども、テレビで何本かは観たりしているし、書棚の本を取り出して、拾い読みなんかはしている。
逃れられないと言うのか、まったく何にもなしの生活と言うのは、ボクの場合は、無理なようです。
昨日は、夕方から「映画でも観ようか」と言うことになり、あれこれ探したんだけど、これと言うのが見つからないで、ずるずると時間ばかり経ってしまい、側で奥さんが、『ノーバディーズフール』と言うもんだから、しばし考えた挙句、ちょっと今更の感じがしたけれども、『ノーバディーズフール』を見ることにした。

観始めてから、ほんの何分かで、奥さんはいなくなってしまい、結局ボクひとりで観ることになった。
途中でやめることもできないことはなかったけれども、長い間、見てなかった映画なので、話の筋も忘れていて、それもあって観ていた。
この映画が大好きだった時期は、随分と長い。
30代から40代の10年ぐらいの間、頭の中に、この映画がなかったことがないぐらい。
あんな映画が作りたいと思ったが、あんな映画、作れるわけがないと思った。ボクには、『タイタニック』や『ターミネーター』を作るぐらいか、それ以上に困難なことだし、真似てみても、及ばないのは、最初からわかり切っていたようだ。
それでも、映画を作るようになって、ふと思い立って、似せたシーンを作ってみたりもした。うまくいかないのはわかっていたんだけど、やらないわけにはいかなかった。ボクの原点だからだろう。

ベントンには、『クレーマークレーマー』と言うヒット作があるが、あれも大好きだが、それよりも、『プレイスインザハート』が好きだし、『ノーバディーズフール』が好きだ。去年だったか、ロッテルダム映画祭に行ったとき、ハワードショアが来ると言うのを知って、『ノーバディーズ~』のサントラCDをもって、サインをしてもらったけれども、あの映画の音楽は、本当に素晴らしい。その素晴らしさは、『マグノリアの花たち』の音楽に匹敵する。共に、どこかトリュフォーを思わせるからだろうが…。

トリュフォーと言えば、ベントンがトリュフォーの影響下にあるのは、わかりきったことだが、今回観ていて、セーターをたくし上げて、おっぱいを見せるメラニーグリフィスなんかは、トリュフォー映画そのもので、ベントンが、照れながら演出をしているのがわかって微笑ましい。
映画はあたかも年老いたドワネルがそこにいるかのように、静かに、端正さを保ち、かつ個人的に展開していき、幸せな寝顔で終わる。
その寝顔を観た時、『春との旅』のラストの仲代さんの寝顔を思い出したのは、ボクだけのはずだ。こんなところにも、この映画の影響があったのかと、ちょっと慌てるほどだった。

仲代さんで、もう一本と思っていたところだったので、この偶然には、今でも、何かの巡り会わせのように感じている。
「そうか、忠男は、死んだわけではないんだな。あそこで、眠ってしまっただけなんだな!」
と思った次の瞬間、『ノーバディーズ~』の主人公は、玄関前のソファーで、葉巻をくわえたまま、眠ってしまったのではなくて、そのまま、死んでしまったのかも知れないとも思い、いずれにしても、幸せな死であり、人生だったのだなと感じないではいられない。

少し少しだけれども、前に向って歩いているようにも感じるし、停滞したままとも感じる。
『日本の悲劇』があまりに思いつめた映画だったので、今度は…と言う気持ちもあるが、今度なんて、本当にあるのかと他人事のようにも思う。

遠く、北海道の雪景色を思っていたら、苫小牧の新聞から、勇払と北上荘のことについての、コメントを求められた。
そちらの方の言葉を考えていたら、知らないうちに、時間がどんどん経っていた。忘れかけていた人たちの顔が次々に浮かんでは消えて行った。

『フリック』や『愛の予感』を作った頃の事を思いだしながら、この文章を書いているのだが、勇払だけに限らず、鳴子温泉にも雪はあるし、ボクのノーバティーズフール(一徹者・頑固者の意らしい)は、まずは、馴染みの風景を思い描きながら、馴染みの登場人物を配して、机の上で、展開されていくのだろう。

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…