オルリーに着いて、ボクらは走った。
  疾走といった感じ。
  もちろん、ボクは、足が攣るのが怖くて、それほど速くは走れなかったけれども、気持ちの上では、まさに、疾走だ。
  突っ走り、飛行場のカウンターに行き、無愛想な女の子に、顎で、「向こう」とか言われて、今度は、荷物取扱いのカウンターへ。
  しかし、そこは、長蛇の列。
  ボクは意気地なしだから、奥さんに、「行け!」と言って、たまたまカウンターに入ってきた男を掴まえさせた。
  ボクは少しだけフランス語ができるが、奥さんは全くなので、こういうときは、奥さんの方がいいのだ。
  手荷物の預かり札を見せて、英語と日本語で、とにかく、「急いでる!!」を繰り返したんだと思う。
  相手も顔色を変えて、中に入って行った。
  しばらくして戻って来て、
  「あなたたちの手荷物は、ヒュースローに行ってる。そこから、JALの飛行機に載せる予定だ」
  と言うのだ!!
  「ええ?! そ、それじゃ、ここに俺たち来なくて良かったってことじゃないかよ!!」
  ムカッと来た。
  誰に対して腹を立てているのかと言うと、それは、CDGのJALの女にだ。
  「あのヤロー!」
  と、待ってもらっていたタクシーに乗り込み、ボクは言った。
  「スーツケースは、この札の通り、成田に向かってるってことじゃないか! どうしてくれるんだ!! 飛行機に乗り遅れたら、誰が責任をとるんだ!!」
  ボクはタクシーの後部席で、暴れださんばかりの勢いだ。
  奥さんは、
  「怒らないで。絶対に、空港に着いても、あの人を怒鳴りつけちゃだめよ」
  と繰り返す。
  「いやしないさ!! あの女は、きっともういない! それでボクたちは飛行機に乗り遅れて、一晩をCDGで過ごすんだ。北京もキャンセルだ。もう、滅茶苦茶だよ!!」
  血糖値と血圧が一気に上がるのを感じた。
  きっと血管の中の血は、ざら飴状態になっていることだろう。
  タクシーは、いくつかの渋滞にあいはしたが、CDGには、離陸30分前に着いた。
  奥さんが、運転手さんにチップを多めに渡したいと言い、10ユーロ札を出したので、「いや、待て待て。5でいい」
  とか、この場に及んで、渋るボクを、軽蔑した眼差しでにらんだ。
  5ユーロのチップだって、立派なもんだ。昔はともかく、今は、カフェに入ったって、チップを残していく奴なんか、見た事もない。もちろん、サービスコンプリだから、基本的にチップは必要ないのは昔からだけど、通訳とかがいると、必ず、「ここは、3ユーロお願いします」なんて言うのだ。
  「お大尽じゃないんだぞ!!」
  がボクの口癖だったことがある。
  案の定、JALのカウンターには誰もいない。
  ボクたちは、ゲートに入り、パスポートチェックを受け、持ち物検査へと進む。
  そして、走って、搭乗口へ。
  するとどうだろう。
  そこに、ボクらを見て、唖然としているJALの女がいるではないか!!
  「あ、来た…」
  と意外そうな顔で、その女は呟いた。
  そう、確かに、その女は、
  「あ、来た…」
  と、意外そうな顔で、呟いたのだ。
  「来たよ、戻って来たよ!! 何とか、この飛行機に乗ろうと思ってさ!! タクシー代、100ユーロとおまけに、5ユーロのチップまで払って、舞い戻って来たんだよ!!」
  と言った。
  いや、言わなかった。
  ボクが言うより先に、奥さんが、何だか、べらべら始めてしまったので、ボクはこのセリフを、口の中で毒づいたにすぎない…。
  と、言うわけで、予約していた飛行機には乗ることが出来たが、疲労困憊。
  搭乗して、シートベルトを着けるなり、眠ってしまい、次に目覚めたのは、食事の時で、食べるなり、また、眠り、目が覚めると、することもないので、普段禁じている映画を観る。
  案の定だ。
  小さい画面での洋画は、吹き替えだし、どんなに素晴らしい映画も、駄作に見えてしまう。
  ある人が、名作はビデオで観ようが何で観ようが、名作。
  みたいなことを言っていたが、飛行機の中だけはいけない。
  飛行機の中で観た映画で、良いなと思えたのは過去に一本きりしかない。
  それは、『トレーニング・ディ』だが、それのみで、その日観たのは、『トゥルー・グリッド』。
  何だこれは。
  コーエン兄弟も堕落したなと呆れるばかりで、途中からは、眠ってしまった。
  因みに、この映画は、DVDで改めて観ようと思っているけど、一度印象の悪かったものは、二度見ても、その印象が180度変わるものではないので、ほんとうに、しばらく時間を置かないと意味がないのだ。
  他にも観たいものがあったけど、ここは我慢。
  ワインを一杯飲んで、また寝た。
  それでも何とか、成田に到着。
  乗り継ぎには、五時間近くある。
  五時間もだ!!
  とにかく、スーツケースと対面して、それを、北京の便に載せて、どこかでビールでもやりながら一服と思っていたら、飛行機からタラップに一歩出た途端、ボクの名前の書かれた紙を持ったJALの職員が目に入った。
  「小林様ですか?」
  と訊くから、
  「そうだ」
  と言うと、
  「スーツケースなんですが…」
  と始まった。
  一瞬、心臓がどきりと音を立てた。
  「おいおい、また、何かあったのかよ」
  悪い予感は、的中した。
  「詳しくお話ししたいと思いますので、こちらへ」
  と、一方に連れて行かれてしまったのだ。
  「何よ、何なのよ!」
  と後から出て来た奥さんが、ボクを呼び止める。
  飛行機のトイレで、タバコを吸ったので、捕まったのか?! と疑っているのだ。
  まさか。幾らなんでも、もう、そんなことはしない。
  「何もしてないよ! ボクじゃなくて、スーツケースだよ」
  と言うと、更に蒼ざめて、
  「スーツケース?!」
  と素っ頓狂な声を上げた。
  乗り換え通路の一隅にあるJALの事務所らしきところで、話を聞いた。
  スーツケースは、未だにヒュースロー空港にあると言う。
  どうして成田行きに載せてくれなかったのかと言うと、その便は乗客の手荷物で一杯だったのだと言う。
  「スーツケースひとつの置き場所もないほどか」
  とボクは、疑いの目を向ける。
  確かに、震災後、被災地支援の一環で、手荷物の重量制限が緩和され、普段の二倍、三倍の手荷物を受け入れているらしいので致し方ないのだが…。
  「で、スーツケースはどうなるんです」
  「お客様は、このまま乗り継いで北京にいらっしゃるのですね」
  「ええ。後、四時間ほどで出発です」
  「ヒュースロー発の北京行きの便があるのですが、それに載せますと、明日の午前には、北京空港に着くことになります」
  「それは何時です」
  「10時半着です」
  「困ったなあ」
  ボクは考え込んでしまった。
  北京での予定表を開いてみた。
  昼から取材などがある。
  そして、そのまま移動して、近くのシネコンへと向い、『春との旅』の舞台挨拶となり、更に移動して、博物館で、温家宝さんらとの会見となる。
  その予定表には、スーツとあり、着替えの時間はないとある。
  ジーパンとくたびれたTシャツ。それにジャンパーでは、失礼にあたる。
  しかし、スーツは、スーツケースの中だ。
  「買いましょう!!」
  奥さんは、とにかくその一点張りだ。
  「しかし、空港でスーツなんか売ってるのかな」
  ボクが呟くと、直ぐにJALの人が調べてくれて、
  「中にはないですね。外に出ればあるかも知れないですが」
  と答えた。
  「外に出たら、また、パスポートチェックがあって、持ち物検査をしなくちゃならないんでしょう。それに、外に出たからと言って、スーツを売ってる店があるかどうか」
  「ユニクロ」ならあるのを知ってるが、「青山」があるとは思えなかった。
  しかし奥さんは、
  「とにかく出ましょう!」
  の一点張りだ。
  しかし、ボクは、もう疲れ果てていた。
  「どうでもいいじゃないか、スーツなんて。どうせこちとら、インディーズでずっとやってきたんだから、金がなくてスーツも買えないんだってことは、みんなわかってくれるさ。そう。ジャンパーがあるだろ、ジャンパーが。あれ襟元まで閉めれば、防災服に見えるよ。緊急の事態には違いないんだから、いざとなったら、それで行けばいいさ。だからとにかく、どこかに入って、ビールでも飲んで休もうよ」
  「馬鹿なこと言うな!!」
  「何が馬鹿なことなんだよう!!」
  いつの間にかJALの人たちを前に、言い争いとなってしまった。
  このままでは収拾がつかないので、
  「冷静に考えよう。いいか? 冷静にな? …スーツを着て出席しなくちゃならないのは、温家宝さんも参加する会見からだろ? それまでは、私服でも問題はないはずだから。と、なると、一時だろ? 一時までに、スーツケースがホテルに届けばいいってわけだろ? 10時半に飛行機が北京の空港に着くんだから、2時間半もあるじゃないか。2時間半あれば、スーツケースはホテルに着くんじゃないかな」
  JALの人が口をはさむ。
  「そうですね。ホテルは北京市内なので、空港からは30分ほどです。渋滞に巻き込まれても、一時間は掛からないと思います」
  「ですよね!それじゃ、来ますよね! 1時までに、スーツケースは」
  「はい。ただし、ヒュースローからのJALの便に、スーツケースが載せられればの話なんですが」
  「また、話を戻す!! どうして戻すの!! 今すぐ、指示してよ!! ヒュースローに電話してよ!!」
  「それがまだこの時間は、向うが夜中でして、電話連絡が出来ないんです」
  「!!」
  もう、どうしていいかわからなくなった。
  綱渡りの連続で、神経がズタズタに切り刻まれていく思いがする。
  「やはり、買いましょう!! スーツケース!!」
  「スーツケースじゃなくて、スーツだろ!!」
  「そう、スーツ!!」
  「待ちなさい!!」
  言った途端、目の前が、ホワイトアウトしていく。
  「やばい、低血糖だ!」
  ボクは叫んで、その場から退散した。
  そして、
  「待て!」
  と、ボクを呼ぶ、奥さんを尻目に、ポケットからチョコレートを取り出し齧ると、通路を行き、免税品店が立ち並ぶ通路の一角のカフェに飛び込んで、ビールを注文、一番奥のソファーの席に腰を下ろした。
  そして、とにかく、ソファーに体を預けた。
  まだ心臓が高鳴っている。喉を通って口から外に、心臓を吐き出してしまうんじゃないかといった勢いだ。
  「ああ、たまらない。これからまだ、俺は北京に行かなくちゃならないんだ。そして、温家宝さんらと一緒に写真に納まらなくちゃならない。それだけじゃないんだ。舞台挨拶だってしなくちゃならないし、それに、日本のメジャーな映画会社の人たちや監督と顔を会わせなくちゃならない。まだまだある。交流会もあるし、食事会だってある。そして何より困難なのは、翌々日の帰国の飛行機だ。朝一の便と言うことは、五時には起きなくてはならない。となると、前の晩はほとんど眠ることも出来ないということだ」
  ボクの脳裏に、つい前日の早朝の、グラナダの悪夢が蘇った。
  送りの車が来なかった、あの悪夢が…。
  ボクはビールを一口、飲んだだけで、もうこれ以上飲む気力も失せて、再びソファーに体を預けた。
   
 
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