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2011/06 1

ホテルに連泊。
なんと、九段下のグランドパレスホテル。

金大中が拉致されたところだ。

普段はとてもボク等が泊まれるようなホテルではないのだが、じゃらんを調べたら、キャンペーンをやっているらしく、半額以下。

だから、連泊することにした。

その数日前も、ここに連泊していた。

朝食は、前の晩にコンビニで買ったおにぎりやサンドイッチ。

いつもなら朝食付きにするのだけれど、今回はそういうわけにもいかない。

部屋を早めに出て、ジョナサンで食べたこともある。

病院で、採血をしてから、眼科へ。

しかしいつまで待っても呼ばれない。

そのうち、窓口で呼ばれ、内科の方へ行くように言われる。

「何だよ」

と腹立たしく呟く。

エスカレーターは節電のために停まっているので、階段を上る。

また、腹が立つ。

たった一基のエスカレーターですら、節電を理由に止める。

しかも、ここは病院だ。

老人の夫婦が、仕方なしに階段を上っていく。

もちろんエレベーターがあるのだから、体が不自由な人はそれに乗ればいいのだが、エレベーターを使うと、内科に行くまでに、20分はかかる。

階段ならば、その半分も掛からない。

で、ボクも老夫婦の後ろを、階段で行く。

内科に着いて、また待たされる。

それで、ようやく、診察。

医者はいつものように、採血の結果に目を通して、

「では、来月は…」

と次の予約日を決めるだけ。

5分も掛からない。

ボクは今後のことを色々と聞くが、途中からもう、切り上げたがっているのが見え見えなので、次の診察日を聞いて、メモして、診察室を出る。

診察室を出ると、処置室へと向かい、注射。

貧血の注射らしいが、医者はいつもこのことを忘れるので、ボクが診察室を出るときに、

「ああ、あの注射は」

と訊く。

「ああ、そうだった。今日もしておきましょう」

とあわてて、パソコンに入力し、送り状を印刷しなおすのだ。

やっと診察が終わったとおもいきや、眼科が残っていることに気付い、また、地下の眼科外来へと向かう。

そして、待たされる。

もう、待っている患者はほとんどいない。

ようやく、看護婦がボクを呼ぶ。

何と検査室だ。

「これから検査? 今、一時近くだぜ」

10時半の予約だったから、10時には病院に入っていた。

もう三時間も病院にいる。

それでこれから検査?

看護婦が、瞳孔を開く目薬を差そうとするので、

「ちょっと待ってくれ」

と言う。

「これやると、あと30分は、診察室に呼ばれないということだよね」

「そうですね。瞳孔が開くまで、30分はかかりますからねぇー」

と答えられて、カチンとくる。

「いやだ、いやだ。これから30分も待つなんてとてもできない。お断りだ」

と叫ぶ。

「でも、瞳孔を開かないと診察ができないんですよう」

「いやだ、いやだ。今日は、嫌だ!いつもは、眼科に行くとすぐに、視力検査があり、瞳孔を開く検査が行われる。

それから待って、診察だ。

なのに今日は、3時間も待たされてからの、目薬。

もう耐えられない。

「帰ろう!」

と外に出る。

看護婦が、

「先生に訊いてきますから、そこで待ってて」

と言うのだが、もう待つのもいやだ。

眼科を行こうとすると、看護婦がボクを呼ぶ。

診察を告げる。

ボクは不機嫌で引き返し、診察室に入る。

なんとそこには担当の医者がいない。

別の医者だ。

「前の先生は」

「あの先生は、つくばの方に帰ったんですよ」

「はあ?」

「これかは僕が担当です」

「?」

「この病院で、大阪弁喋るのは僕ひとりですから、わかりやすいです」

「?」

大阪出身の医者だ。

それはまあ、いいのだが、声がでかい。

それで、もううんざりする。

「緑内障の疑いがありますね。でも、今すぐどうこうすることもないようです。あと、三か月後に検査をして、半年後に、また来てください」

それだけを言って、予約の入力もせずに診察室を出される。

「馬鹿にしてんのか、こいつらは!」

腹が立つ。

会計を済ませて、薬局へと向かい、薬をもらう。

腹の虫はおさまらない。

病院で怒鳴るのは、あまりいいことではないと奥さんが言っていたので、極力怒らないようにしていたのだが、今日は、そうはいかなかった。

媚びる必要もないだろうが、良くしてもらおうという気持ちが患者にはあるから、そこで怒鳴るのは、デメリットだというのだ。

確かに。

でも、今回は、反省もしていない。

眼科を変えようと思う。

何なら、内科も変えてもいいや。

そんなことを思いながら、遅い昼ごはん選び。

いくつか店先でメニューを見て歩くが、結局いつもの店へ。

ワインとパスタ。

そして、コーヒー。

それで怒りが収まったわけではないのだが、ひとまず、休止。


コメント

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