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中国行は初めてなので、ほんとうに期待していたのだけれども、映画祭ならまだしも、多分に政治色の濃い今回の「日中交流映画週間」。果たして、自由に歩き回れる時間がどれぐらいあるのか? と危惧していた。
渡された予定表を見る限り、到着した翌日の午前ぐらいは、何も行事がはいっていないので、その辺しかないかなと思っていたが、実際、到着して、迎えの車で、ホテルにチェックインし、アテンドの人から、
「食事はルームサービスでおとりください」
と言われて、やはり、外での食事は無理かと落胆した。
車でホテルまで来る間に、まだ開いている店は沢山あったのだが、ホテルの近くは薄暗かったから、外に出るには、時間も遅く、観念して部屋に入ったのだが、その部屋が何とスイートで、バカでかい。
スイートには、以前もどこかで泊まったことがある。
それも、その時は、一人だったので、腰を抜かしたのだが、本当に腰を抜かしたわけではなくて、腰を抜かしそうなほど、感動したということ。
でも、今回は、とにかく飛行機の旅が長かったのと、スーツケースの一件がまだ片付いてないのとで、感動する余裕もなく、ソファーに身をゆだね、一服し、それからルームサービスを注文した、
「美味いね」
などと言いながら、来たものを食べ、下着もないものだから、風呂に入る気も起きず、
「まあ、明日でいいか」
となり、ボクはさっさとベッドにもぐりこんだ。
冷たいシーツが気持ちいい。
外は、凄い雨だったが、(稲妻が走っていた)今は小降りになったようだ。
少しだけエアコンを掛けて、目を閉じた。
考えなくちゃいけないことが山ほどあるが、こういう日は、考えたって何かまとまるもんじゃなく、
「んーん、あれだけどどうすっかなあ…」
などと言ってる間に、眠りについてしまった。
こちらに来ているゲストの人たち、誰ともまだ会っていない。
それが幸いしてか、本当によく眠った。
6時間ほど、熟睡した。

朝食は、二階のレストランで、ビュッフェスタイルの食事。
白いご飯はどこを探してもない。
その代わりに、お粥があり、トッピングは好きなものを入れられる。
洋食も充実しているけど、勿論中華も凄い充実ぶりだ。
その気になれば、一日分を腹に収めることも出来るが、今日は、昼も夕飯も予定にあるので、いつもの朝ごはん程度で済ました。
でも、幾分多めかな?
トーストも食べたし、フルーツも食べたからな。
部屋に戻ろうとすると、奥さんが、
「ちょっとその辺散歩してくる」
と言い出す。
「ああ、良いよ」
と言えば良かったものの、なぜかその観光気分が許せず、
「何を言ってる。まだスーツケースだって来てないのに」
と、ボクは部屋に。
奥さんもしょんぼり散歩を諦めて、部屋に戻って来た。
しかし、これからが大変だった。
奥さんの逆襲が始まったのだ。
今まで溜まりに溜まっていた鬱憤が、一気に爆発したのだ!!
…、
…、
…、
…、
ここからは、詳しく書くわけにはいかないので、ご想像にお任せするが、打ち合わせの時間ぎりぎりまでの、奥さんの逆襲に、ボクは、貴重な午前中の時間を、ほとんどバスルームに篭ることになってしまった。

ロビーでの打ち合わせを済ませたころ、空港から連絡が入る。
スーツケースだ!!
無事、北京空港に届いたという。
そして、目下、こちらのホテルに向かっていると!!
それでようやく奥さんの機嫌も直り、ボクらは、ロビーでスーツケースの到着を待った。
こうして、ボクらは晴れてスーツケースと対面することが出来たのだが、そのスーツケースの変わり果てた姿には、言葉を失った。
あちこちに亀裂が入っているのだ。
一瞬、誰か他の人のスーツケースじゃないかと思ったほどだ。
「何だこれ」
ボクはもう、とことん呆れ果ててしまった。

とにかく着替えながら、スペインの事を思い出した。
スペインには三度目で、首都のマドリッドには経由地として利用する以外に、滞在したことはない。
初めてスペインに行ったのは、カナリア諸島のラスパルマ島で開かれた映画祭だ。
そこで初めてスペイン人と接したのだけれども、フランス人やドイツ人やベルギー人とは全く違った、これぞラテン民族!! といったラフさがある。ラフさとは、いい加減さとも言い換えられる。
ラテンの国としては、ブラジルの方が先だが、ブラジル人は、特に映画祭のスタッフのような人たちは意外なほどにきちっとしていて、時間にも正確なのだ。
しかし、スペイン人は、いけない。
とにかく何でも安請け合いをする。
「良いよ、良いよ、ノープロブレム」
この言葉がいけない。
「ノープロブレム」
が口癖の人間にロクな奴はいない。
プロブレムの塊りで、何がノープロブレムなのかすらわかっていない人たちなのだ。
確かに、それが良い方に働くこともある。
いや、滞在中は、このアバウトさが、とても快適に思えてくる。
しかし、いざとなった時には、全てが逆転する。
「そんなの平気さあ、ノープロブレムさあ」
などとシラッとした顔をして、問題山積の渦中に、押しやる。
その時、とうのご本人はいないのだ。

バスク地方のヒホンと言うところにも行ったが、ここは、もう少し様子が違っていて、「ノープロブレム」と言うほどのプロブレム自体がない。
初めから何ら問題はない。
自分の映画の上映時以外、ただただ、同じことの繰り返しで、そのまま帰国の途につける。
同じことの繰り返しとは、こういうことだ。
朝起きると、ホテルのレストランで昼食。
部屋に戻って、休憩。
一時を過ぎると、迎えが来る。
その日の昼食だ。
歩いて、レストランへ行く。
そのレストランには、三々五々、ゲストたちが集まる。
ワインとビールがふるまわれ、好きなものを注文し、待つ。
一時間はざらだ。
へたすると二時間待つ。
待っている間、何をしているかと言うとひたすら話すのだ。
ゲスト同士や映画祭ディレクターを交えてや、映画祭スタッフと、とにかくありとあらゆることを話す。
喉が枯れるまで、話す。
ワインとビールは、制限がないから、グビグビいく。
グビグビいけば、いった分だけ話す。
ボクのように普段寡黙な、そして人見知りする人間は、とにかく居場所がないほどだ。
仕方がないので、飲むのに専念するのだが、待てど暮らせど、料理は来ない。
レストランに入ったときは、まだ朝の食事がこなれてないので食欲もそれほどないのだが、昼のレストランに入って、何時間かが経つと、もう空腹状態となる。
レストランの中は、会話会話会話。
とにかく話声で、充満している。
そして、ようやく食事の皿が来る。
凄まじい量の肉やら野菜が盛り付けられている。
ほとんど、見ただけでお腹が一杯になる。
で、端っこを少しだけ食べて、おしまい。
「さ、帰るか」
と立つ。
するとそれを見ていたスタッフが、スタスタと近づいてきて、夜の食事の案内を始める。
「今夜は、7時から、こちらで夕飯を摂ってください」
とプリントアウトした紙を渡される。
「あ、はい。でも、7時って言うと、今、5時だから、二時間しかないですよね」
「ええ」
「二時間後に、もう食事?」
「ええ」
ケロッとした顔で言われると、答えようがない。
「打ち合わせもしますから、ぜひ、お越しください」
「打ち合わせ」
「ええ」
もう散々しただろう!!
と怒るわけにもいかない。
「わかりました」
と言って、千鳥足で、ホテルへ戻る。
場合によっては、ホテルの近くのカフェで、コーヒーを飲んで、酔いをさます。
ホテルに戻り、映画祭のプログラムに目を通したりしていると、もう、7時だ。
「いけない。行かなきゃ」
と言うことになる。
レストランを探して、20分ほど遅れて中に入ると、もうそこは、ほとんど泥酔状態のゲストたちで盛り上がっていて、矢継ぎ早にワイングラスにワインが注がれ、隣の見知らぬゲストに、
「カンパイ」
などと言われて、
「カンパイ」
と言い返して、飲む。
二杯が三杯。
三杯が四杯。
三時間はあっと言う間だ。
午後10時。こちらではこの時間が夕飯開始の時間らしい。それは、グラナダでも一緒だった。
しかしボクたちは外国人だ。しかも7時の集合ときた。
映画祭関係ではない一般客が、店に押し寄せ、店内は、狂騒と化す。
ボクたちは、タパス何品かで、三時間飲み続け、しかも、一般客の参入によって、更に盛り上がる。
会はいつ果てることもなく続く。
メインディシュが来るころには、吐きそうなほど飲んでいる。
とてもとても、これから500グラムはある肉なんか食べられたもんじゃない。
「どうした!! どこか体調でも悪いのか?! 食べろ!! どんどん食べろ!!
うつろな目のゲストが、ボクを叱り飛ばす。
近くの映画館で、自作の上映があったのだろう。
興奮状態で、ワインをグビグビやりながら、
「飲めよ、飲めよ」
と大騒ぎだ。
這う這うの体でレストランを抜け出し、這うようにしてホテルにたどり着き、トイレに直行して、吐く。
それでも目が回っている。
グワングワンと回っている。
ベッドに倒れこんで、目を閉じても、眠れやしない。
「ワアーッ!!
と叫ぶ。
暴れる。
少しだけ、発散する。
水を飲む。
そこらじゅうにあるミネラルウオーターを残らず飲む。
そしてまたトイレ。
人心地ついたときには、午前3時を回っている。
眠ったと思ったら、7時の目覚ましで起きる。
下のレストランで、朝食。
黙々とパンを齧っていると、映画祭の女の子がボクを見つけて近づいてくる。
「昨日は良く眠れましたか?」
「まあ」
「これが今日の昼食のレストランです」
紙を渡して、ニコリとする。
「…」
ボクは迷う。
今日は、昼飯を抜こうかと思っていたからだ。
「必ず来てください。打ち合わせがありますから」
「しかし」
「ノープロブレムですよー」
女の子はもう一度、ニコリとして去っていく。

この繰り返しが、数日続いた。
いや、一週間だったか。
とにかく判で押したようにこのレストラン巡りが、毎日繰り返されたのだ。
確かに、問題はないのだ。
食事の心配をすることもない。
ただただ、ワインと肉を食べ続け、会話の中に飛び込んで、ああだこうだと映画の話ばかり。よくもまあ、こんなに自作の映画について話す事があるものだと感心するのだが、それぞれが、同じ話を酔いに任せて何度も何度もするもんだから、そのうち、英語の判らないボクでも、
「ああ、また、あの話か」
と顔をしかめる有様だ。
しかし、肝心の映画の上映の方は、上映後の質疑応答もそこそこに、
「レストランに行ってください!! もう、食事が始まってます!!
と追い立てられるで、走ってレストランに向かっているボクは、一体何なんだろうと思わないではいられないのだ。
バスクの映画祭とは、こういうものなのか…。
グラナダ行きが決まった時には、あのヒホンでのことが思い出されたが、ボクの取り越し苦労だった。
バスクとアンダルシアは全く文化が違う。
言語も違う。
グラナダでは、レストランでの食事会など一度もなかったし、狂ったような会話の洪水もなかった。
少し淋しい気もした。
結局、事務局がどこにあるかも判らずじまいだったのだから…。

北京での上映会は、とどこおりなく終わった。
もちろん、ボクらは、上映前の舞台挨拶のみで、別会場へ。
そこで、凄まじいセキュリティーの中、会見などがあり、直に温家宝さんの顔を拝見することも出来た。
夜は、松竹の大谷会長の主催する夕食会にも出席した。
ボクの人生の中で、もっとも異質の、唯一無二の一日だったことは確かだ。
不幸にも震災の被災地となってしまつた気仙沼市。
それを映画に映したのがきっかけだったとしても、中国で『春との旅』が上映されたことは、喜ぶべきことなんだろう。
でも、何だろう、この空しさは。
もう、梅雨で蒸し暑いというのに、ボクの中では空っ風が吹いている。

夕食会も終わりに近づいたころ、それまで、山田洋次監督から話しかけられたことはあっても、緊張していてロクに答えることも出来ずにいたボクは、酔いもあってか、
「ボクは親父と子供のころ、山田監督の映画を良く観に行ったんですが、『馬鹿が戦車でやって来る』は、素晴らしかったですね!! どうしてああ言う発想が生まれて来たんですか!!
とお聞きした。
山田監督は、一瞬意外そうな表情を浮かべてから、
「あの映画が好きな人がたまにいるんですよね。あれは、音楽を担当した団伊玖磨さんのアイデアなんですよ」
とおっしゃった。
ボクは調子に乗って、今度は寅さんのことをお聞きした。
「寅さんのアイデアの基は、マルセル・パニョルの『マリウス』だと山田さんが随分以前に何かで書かれていたのを拝見したんですが、本当ですか?」
「寅さんの原型は、落語なんだけど、パニョルの『ファニー』も加味されてますね」
「そうですか。ボクは寅さんから、パニョルに行って、30年前ですが、『マリウス』や『ファニー』の舞台となったマルセイユを旅して、あの居酒屋の女の子がお百度参りした観音様にも行ったんです。海の見える丘の上にある観音様に」
会は閉会で、話はそれで中断してしまったのだが、映画の集まりで、唯一交わした映画の話が、これだけだったのは、幸福なことだったのか、それとも不幸なことだったのか?
ヒホンでの、会話会話会話の会話漬けも英語が話せないボクとしては困ったものだが、映画の集まりで、映画の話が皆無と言うのも、淋しい限りだ。

あと一つ、7月にボクはNYへ行く。
ミュージシャンの桜井さんが向うの人と話してくれて、『春との旅』がジャパンソサエティーで上映されることになった。
それで、一応、ボクの海外の旅は、終わることになるだろう。
もう、行きたくても行けないのだ。
14歳で映画監督になりたいと思い、トリュフォーに憧れて、フランス行きを希った。
27歳で、郵便局を辞めて、パリへ単身向かった。
それから何度も何度も映画を諦めようとした。
でも、その度に、トリュフォーの映画が、スコセッシの映画が、ベントンの映画が、ダルデンヌ兄弟の映画がボクを映画に踏みとどまらせてくれた。
中でも、やはりトリュフォーの映画が、ボクを映画作りへと導いてくれたのだ。
パリには何度も行ったけれども、既にトリュフォーが他界した後の事だ。
ボクにとってのパリへの旅は、トリュフォーの亡霊を探し求める旅だったのかも知れない。
しかし、もう、それも、終わらなければならないのだろう。

20数年前、NYに旅したことがある。
それも、映画にまつわる旅だった。
ウディ・アレン、スコセッシ、そして、チミノ。
ブロードウェイを歩き、チャイナタウンを歩いた。
ボブ・ディランがコンサートを開いたマジソンスクウェアーガーデンから、泊まっていたアルゴンキンホテルまで、深夜に歩いたこともあった。
『真夜中のカウボーイ』を思い出したりしながらね。

パリ経由のグラナダ行きが、ボクにとっての何度目かのトリュフォーとの訣別の旅だったとすれば、今度のNY行きは、アメリカ映画への訣別の旅と言うことになるんだろう。

では、日本映画への訣別は?
映画への訣別は?
それが北京だったとは、思いたくないが、山田洋次監督にお目に掛かり、『馬鹿が戦車でやって来る』の話をしたときに、その答えは出たのではないかと今は思ったりする。

最近、ベッドに入ると、親父や、お袋の顔が浮かぶ。
風に煽られている顔だ。
髪の毛が逆立っている。
いい笑顔だ。
そして、二度と会えない顔だ。
いや、間もなく再会できるという事なのか…。
その映像が、『大人は判ってくれない』のシネマスコープではなく、モノクロスタンダードサイズなのに驚いている。
ボクの映像の原点は、そんなところにあるのかも知れない。



遅くなりましたが、グラナダ国際映画祭「CINES DER SUR」にて、『春との旅』により、シルバーアルハンブラ賞(監督賞)を受賞しましたことをご報告します。
皆様、ありがとうございました!!

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

あけまして、おめでとうございます。

おくればせながらです。
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義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

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父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
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