2013年6月17日月曜日

『風切羽』に寄せて、


『風切羽』に寄せて、

 

 

 

小澤雅人監督と初めて会ったのは、全州映画祭のオープニングパーティーでだった。

スーツ姿の小澤監督を、旧知の女性から紹介されたのだ。

以前は、どの映画祭に行っても、日本人の監督は僕一人だったが、最近では、どこの映画祭に行っても、若い日本人の監督たちで溢れている。

正直、彼らと話すのは、疲れる。

若い創造することの熱気に圧倒されるからではない。それなら大歓迎なのだが、むき出しの自我と自信満々の立ち居振る舞いに辟易するのだ。

監督にはそういう面がなくては務まらないのだろうが、それを臆面もなく見せつけられると、頭を抱えてしまう。

だから、小澤監督と会った時も、ロクに話はしなかったと思う。

彼を紹介した知人の女性とも立ち話程度だった。

それから数日後、小澤監督の『風切羽』を観た。

『風切羽』は、その年の全州映画祭コンペティション部門で唯一の日本映画だった。

ボクは、前の年に、全州映画祭で、コンペティションの審査員をした。その時、掛かった唯一の日本映画『ももいろそらを』(小林啓一監督)と比較するためだった。

『ももいろそらを』をボクは、審査の席で、推したのだが、援護射撃は一切なく、選に漏れてしまった。しかし、その世界観は、高く評価されるべきものだと今でも思っている。『風切羽』がそれと比較してどうか? と言うのに、ボクは興味を持っていた。他のコンペ作品を一切見ないわけだから、そんな比較しかボクには出来なかったのだ。

冒頭からの20分で、ボクは、「これは、自主映画ではないのではないか?」と思った。あまたの自主映画と呼ばれているものとの差は歴然としている。

その完成度の高さは、商業映画のそれと何ら変わりがなかったからだ。技術関係の腕の確かさから来ているのかとも思った。

しかし、それと相反して、描かれているのは、児童虐待である。主役の秋月三佳が、滅法いい。ボクは、映画に引き込まれながら、自問したものだ。「やばいぞ! この監督は、凄い!」と!

描いている世界が、ボクと似たものを感じたからだ。こんな思いを抱いたことは滅多になかった。いや、初めてと言った方が良いだろう。

そのハラハラする思いは、映画の中盤まで続いた。

映画の後半から、その緊張感は失われて行き、少年と主人公の逃避行となって行き、ある事件によって、映画は、収束に入る。

「きょう、どこへ向かう?」

「コノヨの果てまで」

予告にも使われている、台詞だ。

アメリカンニューシネマを観て育った世代なら、この台詞の世界観から、映画の終わりは容易に想像できるに違いない。

『イージーライダー』しかり、『明日に向って撃て』しかり、『俺たちの明日はない』しかりだ。この世界観の終わりに来るのは、予期してなかった死。突然の幕切れだ。

しかし、小澤監督は、もちろん、アメリカンニューシネマを観て、育った世代ではない。もっとずっと後の世代だ。DVDで観たことはあっても、封切りの劇場で驚きと、無常観をもって、体験した世代ではない。だから、二人には、予期しなかった死は、訪れるはずもない。不思議なほどに、二人には、死の臭いも感じない。あるのは、何ら、希望のない、明日だけ。物足りないと言えば、物足りない。

巧みさと稚拙さが交互に、ひっきりなしに現われるところなど、新人監督らしい部分もある。

しかし、ボクは、小澤雅人監督を、『風切羽』を高く評価したい。この映画には、怒りがある。静かだが、熱がある。こんな新人監督は、滅多に現われるもんじゃない。恐るべき、子供だ!

 

 

2013/6/15




映画『風切羽』のオフィシャルサイトは、こちら、
 



 

 


 

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