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20150413

どういうわけか、「丹下左膳 百万両の壺」が、観たくなって、再見。
数年ぶりに観たこの映画、何度も繰り返される、飛躍の処理に、「ああ、このことを指摘した批評を以前、読んだな」と呟いた。
「行かない」と言った後に、行く左膳。
「子供は嫌い!」と言った後に、子供をかわいがってる的屋の女。
山中貞夫監督は、「丹下左膳」を、剣豪ものとしてではなく、カラッとした笑いの中で、描いている。そういう意味では、この映画は、番外編的と言うか、異色作と言うことになるのだろう。
ボクは、日本映画の系譜のようなことを、あまり良く知らない。
この映画が、日本映画の中の、どの位置にあるのかなんてことも、判らない。
でも、面白いものは、面白い。
人情の機微が描けていて、何よりも、大河内伝次郎の醸し出す、独特の空気感が、いい。
大河内伝次郎は、黒澤明の「姿三四郎」でも、師匠役を演じていた。他にも、数え上げればきりがないほど、映画に出ているが、山中貞夫の映画以外では、どこか強面の役が、多いのではないか。
プスッとした決して笑わない男。
それが見せる、スラップスティックのような笑い。
バスターキートンを思い出す。
「人情紙風船」も近いうちに再見しようと思っているが、大河内の出ている「丹下左膳 百万両の壺」の方が、ボクは、気に入っている。
この映画を観ようと思ったのは、ボク自身が、今、時代劇の脚本を書いているからなのだが、書きながら、時代劇と一口に言っても、沢山の枝に別れていて、この映画などは、あまり参考にはならない。
他にも、何本か見たのだが、やはり、参考にはならない。
判ったのは、時代劇と言うジャンルが、確かにあるということだけだ。


勧善懲悪だけが時代劇ではない。
そんなこと、判り切った事じゃないか。
テレビだけだよ、勧善懲悪がまかり通っているのは。
そんな声が聞こえてきそうだが、時代劇に王道があるとすれば、やはり勧善懲悪と言うことになるんだろう。


「七人の侍」のシナリオを読んだ。
これは、初めての事。
もちろん映画の方は何度も観たが、シナリオを読んだのは初めて。
その「七人の侍」の脚本にも名を連ねている、小国英雄の「血槍無双」も読んだ。
まあ、見事な脚本だった。
今更ながら、頭が下がる。
とにかく、ト書きの書き込みがハンパない。
映画そのものを書き写しているようなものだ。


最近のボクの脚本は、ト書きが、ないに等しい。
それは、自分が撮るからと言うこともあるが、予算の少ない映画の場合、ト書きに下手なことを書けば、自分で、自分の首を絞めかねないからだ。
ボクが、27歳の時に書いた「名前のない黄色い猿たち」と言うシナリオは、その年の城戸賞を貰ったのだが、受賞後、野村芳太郎監督に呼ばれて、当時あった「霧プロ」に出入りしている時に、
「君の脚本は、もう少し、ト書きを書き込んだ方がいいと思う」
と言われた。
だから、今に始まった事ではなく、もともと、ト書きが少なく、短い台詞の羅列で、書くのが好みだったようだ。
それは、多分に、初期のゴダールらからの影響もあったのだろう。
トリュフォーも、シナリオライターを否定的にとらえていた時期もあった。
映画を決定的に支配するのは、シナリオライターではなく、監督だ。
いや、そうであって欲しい。
だから、動きに関しては、監督に委ねたい。
そんな気持ちもあった。
でも、それでは、撮れないと言う監督も、いる。
ちゃんと書き込んでくれないと困る。と言う監督もいるのだ。
だから、ライターだった時は、監督を見て、書き分けたりもしていた。




時代劇のシナリオが、いっこうに進まないので、気分転換に、西木正明の「凍れる瞳」を読んだ。
読んだのは、二編だけ。
表題作と「端島の女」だ。
軍艦島について書かれた本は、少ない。
「端島の女」は、その少ない一本だ。
入念な取材をしていることは、判ったが、主人公がこれからどうやって生きていくのかが、未解決だ。
中編に近い、短編だから、これでいいのかも知れないが、端島を訪ねた女の過去だけで、話が終わってしまうのは、勿体ない。
とはいえ、どう続けたらいいのかは、判らないのだが。
この作品に限らず、ボクは、短編が苦手だ。
進んで、読みたいとは思わない。



時代劇のシナリオが、準備稿までいったので、息抜きによんだのが、桐野夏生の「夜また夜の深い夜」だ。
ある時を境に、桐野さんの本は読まなくなっていた。
一時期、貪るように桐野さんの本ばかり読んでいたのに、それが、何だったかで、プツンと途切れた。
新刊が出るたびに、手に取ってみたり、ネットで検索してみたりするのだが、それもしなくなっていた。なぜかは、判らない。
それが、ある人のブログを読んで、引っかかり、久し振りに読んでみようかということになった。たまたま書店に行ったので、買い求めた。
それでも、読む気にならず、ずっと本棚の隅に置かれたままだった。
気にはなっていたのだが。

書簡形式の始まりを読んで、少し、閉口した。
「また、これか」
と思った。
でも、読んでいくうちに、「残虐記」なんかと似た匂いを感じた。
「OUT」にも、似ている。
昔の桐野さんに戻ったのだ。
でも、昔とは違う。
少しと言うか、かなり違う。
桐野さんも、進化している。
進化していないのは、ボクだけなのか。
いいや、ボクも、きっと進化しているんだろう。
自分では、判らないが、そうあるように努力は、しているのだから。


つまりは、こういうことだ。
押し黙る事が、慎ましさだなんて、思わないことだ。
押し黙ることで、心に、病が生じる。
でまかせでもいいから、話すことだ。
自分を、道化にしてでも、笑うことだと。
緊急時に、必要なことは、笑いなのだ。
笑い飛ばすことなのだ。
今の、ボクらが、必要なのは、ただ、それだけ。


そう思うと、気が楽になった次第。

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
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あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
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店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
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それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
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そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
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かつて、ボクは、数十年前に、
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あまり、認めてもくれなかった。
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自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
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例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…