2015年4月15日水曜日

20150413

どういうわけか、「丹下左膳 百万両の壺」が、観たくなって、再見。
数年ぶりに観たこの映画、何度も繰り返される、飛躍の処理に、「ああ、このことを指摘した批評を以前、読んだな」と呟いた。
「行かない」と言った後に、行く左膳。
「子供は嫌い!」と言った後に、子供をかわいがってる的屋の女。
山中貞夫監督は、「丹下左膳」を、剣豪ものとしてではなく、カラッとした笑いの中で、描いている。そういう意味では、この映画は、番外編的と言うか、異色作と言うことになるのだろう。
ボクは、日本映画の系譜のようなことを、あまり良く知らない。
この映画が、日本映画の中の、どの位置にあるのかなんてことも、判らない。
でも、面白いものは、面白い。
人情の機微が描けていて、何よりも、大河内伝次郎の醸し出す、独特の空気感が、いい。
大河内伝次郎は、黒澤明の「姿三四郎」でも、師匠役を演じていた。他にも、数え上げればきりがないほど、映画に出ているが、山中貞夫の映画以外では、どこか強面の役が、多いのではないか。
プスッとした決して笑わない男。
それが見せる、スラップスティックのような笑い。
バスターキートンを思い出す。
「人情紙風船」も近いうちに再見しようと思っているが、大河内の出ている「丹下左膳 百万両の壺」の方が、ボクは、気に入っている。
この映画を観ようと思ったのは、ボク自身が、今、時代劇の脚本を書いているからなのだが、書きながら、時代劇と一口に言っても、沢山の枝に別れていて、この映画などは、あまり参考にはならない。
他にも、何本か見たのだが、やはり、参考にはならない。
判ったのは、時代劇と言うジャンルが、確かにあるということだけだ。


勧善懲悪だけが時代劇ではない。
そんなこと、判り切った事じゃないか。
テレビだけだよ、勧善懲悪がまかり通っているのは。
そんな声が聞こえてきそうだが、時代劇に王道があるとすれば、やはり勧善懲悪と言うことになるんだろう。


「七人の侍」のシナリオを読んだ。
これは、初めての事。
もちろん映画の方は何度も観たが、シナリオを読んだのは初めて。
その「七人の侍」の脚本にも名を連ねている、小国英雄の「血槍無双」も読んだ。
まあ、見事な脚本だった。
今更ながら、頭が下がる。
とにかく、ト書きの書き込みがハンパない。
映画そのものを書き写しているようなものだ。


最近のボクの脚本は、ト書きが、ないに等しい。
それは、自分が撮るからと言うこともあるが、予算の少ない映画の場合、ト書きに下手なことを書けば、自分で、自分の首を絞めかねないからだ。
ボクが、27歳の時に書いた「名前のない黄色い猿たち」と言うシナリオは、その年の城戸賞を貰ったのだが、受賞後、野村芳太郎監督に呼ばれて、当時あった「霧プロ」に出入りしている時に、
「君の脚本は、もう少し、ト書きを書き込んだ方がいいと思う」
と言われた。
だから、今に始まった事ではなく、もともと、ト書きが少なく、短い台詞の羅列で、書くのが好みだったようだ。
それは、多分に、初期のゴダールらからの影響もあったのだろう。
トリュフォーも、シナリオライターを否定的にとらえていた時期もあった。
映画を決定的に支配するのは、シナリオライターではなく、監督だ。
いや、そうであって欲しい。
だから、動きに関しては、監督に委ねたい。
そんな気持ちもあった。
でも、それでは、撮れないと言う監督も、いる。
ちゃんと書き込んでくれないと困る。と言う監督もいるのだ。
だから、ライターだった時は、監督を見て、書き分けたりもしていた。




時代劇のシナリオが、いっこうに進まないので、気分転換に、西木正明の「凍れる瞳」を読んだ。
読んだのは、二編だけ。
表題作と「端島の女」だ。
軍艦島について書かれた本は、少ない。
「端島の女」は、その少ない一本だ。
入念な取材をしていることは、判ったが、主人公がこれからどうやって生きていくのかが、未解決だ。
中編に近い、短編だから、これでいいのかも知れないが、端島を訪ねた女の過去だけで、話が終わってしまうのは、勿体ない。
とはいえ、どう続けたらいいのかは、判らないのだが。
この作品に限らず、ボクは、短編が苦手だ。
進んで、読みたいとは思わない。



時代劇のシナリオが、準備稿までいったので、息抜きによんだのが、桐野夏生の「夜また夜の深い夜」だ。
ある時を境に、桐野さんの本は読まなくなっていた。
一時期、貪るように桐野さんの本ばかり読んでいたのに、それが、何だったかで、プツンと途切れた。
新刊が出るたびに、手に取ってみたり、ネットで検索してみたりするのだが、それもしなくなっていた。なぜかは、判らない。
それが、ある人のブログを読んで、引っかかり、久し振りに読んでみようかということになった。たまたま書店に行ったので、買い求めた。
それでも、読む気にならず、ずっと本棚の隅に置かれたままだった。
気にはなっていたのだが。

書簡形式の始まりを読んで、少し、閉口した。
「また、これか」
と思った。
でも、読んでいくうちに、「残虐記」なんかと似た匂いを感じた。
「OUT」にも、似ている。
昔の桐野さんに戻ったのだ。
でも、昔とは違う。
少しと言うか、かなり違う。
桐野さんも、進化している。
進化していないのは、ボクだけなのか。
いいや、ボクも、きっと進化しているんだろう。
自分では、判らないが、そうあるように努力は、しているのだから。


つまりは、こういうことだ。
押し黙る事が、慎ましさだなんて、思わないことだ。
押し黙ることで、心に、病が生じる。
でまかせでもいいから、話すことだ。
自分を、道化にしてでも、笑うことだと。
緊急時に、必要なことは、笑いなのだ。
笑い飛ばすことなのだ。
今の、ボクらが、必要なのは、ただ、それだけ。


そう思うと、気が楽になった次第。

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