2015年5月24日日曜日

2015/05/23

「人生」なんて言葉を使えるのは、還暦を過ぎてからだと、ずっと思っていた。
でも、還暦を過ぎた今も、人生って言葉は、そう簡単に使える言葉ではないようだ。
「ライフ」とか「ラヴィ―」にも、そんなところがあるのかも知れないけど、向こうの人たちは、意外とサラッと言えてしまいそうだ。
でも、日本人だから、「人生」しかないので、そうはいかない。
だから、ちょっと恥じらいもあるのだけれども、人生と言う言葉をときどき使う。
人生には、いろなん局面があるし、その生き方を選んだ時点で、その人の人生はおおかた決まってしまう。
自分で選んだ人生なのだから、振り返ることはあって、悔やむことは、しないようにと、思っていた。
が、実際どうだろうか?
悔やんではいないか?
自分に訊くが、答えはない。
答えたくないのだろう。

ボクは、シナリオを書いていたが、これ以上のストレスには耐えられそうにないと、ある日思い、やめた。やめて何をしたのかと言うと、まず、芝居をやってみようとした。
なぜか、映画のシナリオより先に、戯曲を書いていたからだ。
ポスターも出来、ぴあにも案内が載った後に、稽古中に役者が降りてしまい、公演にまで至らなかった。
代役なんて考えることもなかった。
おかげで、何百万の金を使った。
公演中止は、ボクの損失となった。

芝居が駄目なら、映画だと思ったんじゃない。
最初から、映画だったのだが、肝が据わらなかったんだろう。
それとも、遠回りをしたかったのか?
40を過ぎても、まだ遠回り?
そりゃないでしょと、今は思うが、もともと、遠回り好きだから、いつまでたっても、真っ直ぐに行けない。

残り少ない貯金をかき集めて、映画の準備をはじめた。
後厄が終わり、次の年の4月に、映画を作った。以来の、映画作り。
うまくいってると感じたことは、あまりない。
ギリギリのところに立っていつも作っていた。
これで、映画作りが終わってもいいと毎回思った。
でなくちゃ、やれない。
シナリオ書きとはまた違う、映画作り。自主映画作りだ。
肝は、据わってるはずだが、最近は、人生のことを、思う。
次の人生なんてないのかも知れないけど、もし、あるのだとしたら、もう少し、平穏にと思う。
とにかく、いろいろありすぎた。
借金がないのは、ありがたいことだが、借金なんか出来るほど、偉くもないので、分相応に、映画を作ってきたと言うことだが、映画に、分相応もへったくれもないとも思う。
とことんまで、冒険しないのは、ボクに、ギャンブラーとしての資質がないからだ。映画作りに夢中になり、どっぷりとつかっている時など、暴走する寸前で、踏みとどまる。このままいったら、まずいぞと。
そんな時、なぜか、親父の顔が、浮かぶ。
親父に、支配されてきた人生だったのかも知れない。
反撥も含めて。

×  ×  ×

今日は、前から約束していた友人と、映画を観た。
『MOMMY』以来だから、何にしようかと、迷った。
何本かボクの方から提案したが、最終的に、『真夜中のゆりがご』になった。
スザンネビアの新作。
この監督の映画は、去年だか、一昨年観て、独特のストーリーとドラマを、巧みな演出で見せる。
役者から最大限の演技を引き出す力。
それは、見事という他はない。

北欧の監督には、何人か、好きな監督がいるが、共通しているのは、ドラマが濃厚なことか? そう言えば、『MOMMY』の監督も、北欧ではないが、カナダのケベック州の人で、共通した何かがあるように思う。
スザンネベア監督のことを知ったのは、ツイッターでだった。
ある人(@bacuminさん)が、観た映画の話をしていて、興味を抱いたのが始まりだった。
その人は、映画批評を生業にしている人ではない。だからか、何か、ニュートラルな視点をもって、映画を観ている。
最初に何を観たのか、覚えていないが、驚きと歓心の両方が、ボクを熱くした。
こんな人がいたのか!
と嬉しくなった。
彼女の映画は、一見、アメリカ映画のように見えるところがあるが、ヨーロッパの香りもある。言葉が、母国語のデンマーク語だからか、泥臭さが残る。
そこが、いい。
すっかり魅了されたボクは、遡って、いままでの彼女の映画全てを観た。
なぜか、全作(デビュー作のみ日本未公開)が、DVDで観られるのも、不思議な感じだった。
詳しくは、知らないが、カンヌやベネチアなどの映画祭には、出品していないのか?
それとも、何作かは出品しているのかも知れないが、それほど、映画祭に好まれる映画ではないように思う。
映画祭向きに作っているわけではないのは、映画を観れば判る。
監督の発する言葉からも、そのように感じる。

日本で全作がDVD化されているのは、アカデミーの外国語映画賞を獲ったからなのかも知れないが、こういう人の作品を日本でDVDにしようと言う会社があるのだから、日本も、まだまだ捨てたもんではないなと思う。
アカデミー賞を獲った監督なのだから、近いうちに、ハリウッドで大作と言うことになるのかなと思っていたが、なかなかそうはならない。
米語での映画もあるが、映画作りのスタンスは、あまり変わらない。

自国で、お馴染みの役者を使い、今回は、主役に、テレビスターを使い、演技は初めての売れっ子モデルを、しかも、確かな演技を要求される役どころに起用している。
自国デンマークでは、既に巨匠なのだろうが、自分のスタンスで、常に映画を作っている。それだけでなく、シリアスなストーリーに、娯楽性を加味している所が、好きだ。

さて、『真夜中のゆりかご』だが、一緒に観た友人は、終始、もぞもぞと、時計を見たりしていて、こりゃあかんなといった雰囲気。
隣にいるボクは、そんな彼の動きを気にしながら、画面をぼんやりと見ていた。
前半の展開に無理があり、それがもぞもぞの原因なのだが、それでは、この話をどう巧く転がしていくのかというと、今展開しているやり方以外に見当たらない気もする。
監督も、それは十分わかっているようで、力技で、突破して行こうとする。
細かいカットを積み重ねて、一体、何度、テイクを重ねたのかわからないぐらいに、色んな方向から役者をとらえる。それでいて、緊迫感は、失わず、決してMTV的にはならない。

シナリオは、いつも監督とコンビを組んでる人で、どの作品も、基本、ふたつの視点からのシーンバックで、展開する。
話が、面白くなっていくのは、中盤以降で、それからの展開には、唸らせる。
やはり、スザンネビアだけのことはある。
罪の償い。
そして、実直ながらも、ありえない行動を犯してしまう主人公。
それらは、この映画でも、鮮明に、現れている。
この監督の映画を観ていると、こういう映画が、日本でも作られたらなあと、いつも思う。
多少ゴリ押しでも、観念を排除して、具体で、ゴリゴリ押して来る。ドラマを真正面からとらえる。巧妙なストーリー展開。
なかなか、出来ない事だ。
日本映画は、生真面目なのだとは、先日会った友人の言葉だ。
真面目はいいが、いつもそれだけで、晒すことのない映画には、飽き飽きだ。
監督の主張は、シナリオに入っている。それだけでいい。

http://www.webdice.jp/dice/detail/4687/


観終えた後、ワインを呑んで話した。
観た映画の話は、そこそこに、自分の近況などを。
相手の近況も聞いて、
「そろそろ勝負だね!」
と、友人に言った。
自分にも言ったのかどうか。
言ったんだろう。吐く言葉は、自分に返って来るのだから。
しかし、何度言ったろうか? 勝負って言葉。
まあ、映画を作れば、いやおうなく、勝ち負けの世界に飛び込んでいかなければならないので、毎回、勝負なのだ。
しかし、いつか、勝負なんて言葉は使わないで、映画が作りたいと思っている。
でも、そんなこと出来るもんじゃないんだろう。
ただ、勝ち負けの世界には、出来ることなら居たくない。
親父が、博打好きだったと言うのもある。
博打うちの嫌なところを散々見せつけられたからだが、同じ血が、ボクにも流れている。
それをもてあましている自分もいる。
ボクは、簡単に、勝負からは降りられる。
いや、いつも降りている。
そこに、プライドみたいなものはない。気が向けば、でいいのかも。全て。

帰って、一杯。
いや、二杯。
最近、酒がすすんで仕様がない。
ほどほどにはしているが、つい、もう一杯となる。
いじきたない酒だ。
呑みながら、映画のことを、思い出す。
あの橋。
あの橋を見付け、選んだことだけで、『真夜中のゆりかご』は、成功だ。
真夜中の橋。
んー、と唸る。
スリリングで、ミステリアスで、美しいあの橋。

橋を挟んだ、向こうとこちら側。
その真ん中で、立ちすくむ、女。
登場人物への、優しい目線。
誰か、彼女に、日本で撮って貰おうと言う人は、いないのか?
いつもの脚本監督コンビで。
桐野夏生さんの原作がいい。
空想は、幻想となり、『OUT』を彼女がリメイクした映像が、浮かんできた。
いや、しかし、どうやらそこは、日本ではないようだ。
やはり、デンマークかスウェーデンだ。お馴染みの役者さんたちがいる。
そうか、北欧が舞台の『OUT』か。
幻想が、妄想へと変わり、パアーッと、目の前に、映像が拡がって行った。
そして、また、あの橋が浮かんだ、








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