スキップしてメイン コンテンツに移動

夢見た旅

「夢見た旅」は、アンタイラーの小説のタイトルだが、別に、アンタイラーのことを、書こうって言うんじゃない。
アンタイラーは、映画「偶然の旅行者」で出会った、原作者で、当時のボクのお気に入りで、何冊か、買った。
その後、ちょっとしたブームになったんだろうか?
アンタイラーの本が次々と翻訳された。
その本は、文庫本もなった。
「夢見た旅」は、「偶然の旅行者」の次に、買った本だった。
デビュー作ではないにしても、初期に書かれた本だったようだ。
一度、読んだが、内容は、忘れてしまった。

何でも、忘れてしまう。
忘れたいと思っていることは、なかなか忘れないが、気にしていることほど、忘れてしまう。
「こと」や「もの」を、ことごとく忘れてしまう。
だから、今更、「夢見た旅」のことは、書けない。
書きたくても、書けない。

ただ、「夢見た旅」と言う、タイトルだけは、ときどき思い出す。
ある日、平凡な主婦が、夢にまで見たひとり旅に、出る。
遠く、北欧まで行って、オーロラを見たかったのかも、知れない。
そんな、本とは、違ったストーリーを、いつの間にか、組み立てている。

旅の途中で、女は、いろいな人と出会う。
何せ、オスロまで来たはいいが、どこへ行けば、オーロラが見られるのか? それさえも判らないのだから。

とにかく、更に北を目指す。
しかし、偶然、出会ったトラック運転手に、世話になり、その家族と共に過ごすようになる。
小さな息子に、まだ小さかった頃の自分の息子のことを思う。
今、主人公の息子は、家を出て、妻を娶り、子をもうけている。主人公にとっては、孫だ。
それでも、平和で、幸せな暮らしを送っているかといえば、そうでも、ない。
いろいろある。
失業したり、妻が、別の男を好きになっていたり…。
自分の夫は、企業年金生活に、満足している。
しかし、妻には、夢がない。
あるのは、旅することだけ。

でも、目の前にいる、子供は、無垢だ。
人生は、これからだ。
だから、女は、愛おしい。
自分の子のように愛おしい。

ある日、女は、愛おしさ、あまって、連れ出してしまう。
厳冬の北欧。
帰り道に、迷った女は、とにかく、子供だけは、大事に、温める。
捜索隊が、両親の通報で、森を、海を捜す。
でも、見付からない。
泣き叫ぶ、両親。
「あの女が、私の息子を奪った!!」
そう叫ぶ。

一方、女は、厳寒の中で、白夜を迎える。
あたりには、オーロラが、見える。
いや、それは、意識の薄れていくなかで見た、幻想なのかも、知れない。
この町に、オーロラなどないのだから。
でも、女は、夢見た旅を実現する。
無謀な、夢見た旅だったのだ。

捜索隊が、朝になって、凍り付いた女を見付ける。
既に、死んでいる。
同行した、両親は、またもや、泣き叫ぶ。
捜索隊のひとりが、凍り付いた女の体にしがみついていた、子供を取り出す。
息をしていないのか?
死んでるのか?
しかし、その子は、眠っていただけなのだ。

その子は、生きていたのだ。
目覚めた子供は、
「お母さん」
と、母親の胸に飛び込んでいく。

女の「夢見た旅」は、こうして終わるのだけれども、どうして、こんな話を思い付いたのかというと、二年ぐらい前に、ノルウェーのトロンハイムというところに行って、死にかかったことがあるからだ。
あの時は、本当に、辛かった。
死ぬんだなと思った。
こんなとこで、俺は、野たれ死ぬのかと、思った。
でも、それも悪くないと、一方で、思ったことも確かだ。
自分の死に場所としては、ふさわしいのではないかとも、思った。
ノルウェーは、あこがれの地だったからだ。
バイキングとイプセン。
ペールギュントの国ー。

誰にも、夢見る旅は、あると思う。
でも、夢見た旅は、そう出来るもんじゃない。
完結は、ないのかも知れない。

今も、夢見た旅の途中であることを、願って、

05/08



コメント

このブログの人気の投稿

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…