スキップしてメイン コンテンツに移動

栄光の反逆者

山岳小説や、登山のルポや、ノンフィクションなど、書店やネットで、目にするたびに買い求め、読んでいる。
これは、結構長くて、始まりは、前にも書いたが、「呪われた極北の島」と言う、なんというか冒険小説のようなもので、後半、すごく怖くて、当時住んでいた三畳間の押し入れに、頭を突っ込み、スタンドの灯りで読んだのだけれど、もの音がする度に、ビクンと体が、刎ねた。
これにはまってから、冒険を夢見るようになり、特に、山岳ものにはまった。
だから、ほとんどの名著と言うのは、読んでいるつもりだが、それらは、登山家や冒険家の残したもので、ノンフィクションでは、沢木耕太郎氏が書いている「凍」があるが、他は、それほどないのではないか?(もちろん、新田次郎氏がいるのを忘れてはならないが、新田氏は、山岳とはとても近い仕事をしてこられた方なので、山岳家と言ってもいいのではないか)

そんななかで、本田靖春氏の「栄光の反逆者」を読んで、沢木氏の山岳ノンフィクションには、先駆者がいたんだと、感じ入った。
たしかに、この評伝のスタイルを持つ、ノンフィクションには、アルピニストが書いたような、リアル感が薄い。調べて書いた感がある。
それも、前半は、少し読むのが辛くなるほどだが、後半になると、この本の主人公、小西政継氏の人間性に、グイグイ引き込まれていく。
その筆致には、自分と同化しているとしか思えない、凄みがある。
これが、本田靖春氏の独壇場で、「いよ! 待ってました!」と声を掛けたくなるほどだ。

テレビでたまに、冒険家のような人たちが、未踏の地に、出掛けて行くドキュメンタリーを放送しているが、もちろん、一応それも見るのだが、なかなか、読むものには、追いつけてない。撮る側の問題なのか、冒険家の問題なのかはわからないが、大体が、途中で断念してしまうし、あまり悔しさとか、当然持つだろう感情とかが、どこかに吹き飛んでしまっている。画面に、それが映っていないし、カメラの前で、そんなものを見せるのは、男の恥以外にないのだろうが。
もちろん、タレントの冒険番組は、論外なのだが、(これは、これで見ることは見るのだが)意図して、カメラの前で泣いたり、騒いだりしているのを見ると、それなりの迫真感が伝わって来るので、余計、登山家のそれが、物足りなく見えるのかもしれない。いずれにしても、登山家に、カメラを向けること自体が、所詮無粋なことなのだ。(植村直己氏のように、うまくそれを利用して、セルフプロデュースしている人はいるが)それは判っているのだが、毎回、つい見てしまう。

文中で、小西氏が、凍傷で足の指10本を失い、手の小指を第一関節の所で、切断し、足の裏にも、凍傷があり、足の裏の肉を削いだと言う記述がある。
前にも、フリークライミングの人が、凍傷で、ほとんどの手足の指を失ったとの記述があった。
なのに、まだ諦めない。
手足を失っても、まだ、続けようとする。
一体、これは、どういう精神力なんだろうと、毎回、思う。

山野井泰史氏の「垂直の記憶」、松濤明氏の「風雪のビヴァーク」などなども。
そして、今回の「栄光の反逆者」。

映画と山は、似て非なるもののように思えるが、案外、似たものなのかもしれない。
成功もあるが、挫折も多い。
慎重に慎重を期し、計画を練り、確信が持ててやっと、始まるのだが、そこには、思いもよらないアクシデントが待ち受けている。
山でのアクシデントは、命取りになることもあるが、生還したものの、手足を失くすと言うアクシデントもある。
よほどのことがない限り、映画で命を落とすことはないが、現場では、危険はつきものだ。
命にかかわらないアクシデントなら、無数に、毎日のようにある。
それを一歩一歩、乗り越えないと、映画は作れない。
よく、映画はスタッフ、キャストのみんなで作ったと言うひとが、いるが、確かに、スタッフ、キャストがいなくては、映画は作れないし、そういう映画もあるかも知れないが、スタッフ、キャストが、それぞれ深く自分を見詰めて、これでいいのかの試行錯誤をしなくては、作れない映画もある。
それは、みんなで力を合わせてなんて言う表現ではない。

登山家が、アクシデントに見舞われたら、どう対処するのか?
潔く諦め、別の人生を送るのか?
そういう人もいるだろうし、そういう人が、ほとんどなんだろう。
それを否定はしたくない。
ボクだって、別の人生を模索したクチだし、今でも、そんな考えが、頭をもたげて来る時があるのだから…。
しかし、それで山をやめたり、諦めたりはしない人がいる。
小西氏も同様だ。
身障者になっても、リハビリを続け、巨峰を指揮したし、挑み、登頂も果たした。

この作品は、1980年に刊行されたもので、何度か、小西氏に、インタビューを申し込んでおり、本の最後は、カンチェンジュンガへの登頂で、この時は、本人は、指揮しただけで、登頂を果たしていないのだが、下山する際にも、凄まじい肉体との闘いがあったことを、記している。
本田氏が、インタビューしたのは、カトマンズに一隊が戻って来てからで、お祝いの会などが連日行われた様子も、書かれていて、その時の小西氏が、どんなに悔しい思いでいたか。疲れ果て、普段口にしないようなことまで口にし、行動する。自分を支えるのだけで精一杯の小西氏を、本田氏は、見守り、インタビューの機会をうかがう。
極端にデリケートになっている人間にインタビューしようと言うのだ。
これほど辛いことはないだろう。
小西氏のほうから、いつでもいいですよと言われたにも関わらず、なかなかインタビューできずにいる。そして、離れた場所から、小西氏の振る舞いを見守っている。
ずかずかと乗り込んでいって、不躾な振る舞いなどはしない。見ている。見守っている。
その筆致が絶妙にいい。
この部分の引用は、しない方がいいだろう。
どうか、頭から、この作品を読んでもらいたい。

小西氏は、中学を出て、印刷会社に奉公として入り、山登りと出会い、獲り憑かれていく。
当時、大学山岳部が中心の山岳界に、社会人中心の山岳同志会を作った。
それからの彼の努力には、凄まじいものがある。
毎日欠かさず、3時に起きて、飯田橋から、四谷、赤坂を抜けて、日比谷公園を、皇居を通って、飯田橋までを走り通したそうだ。毎日、欠かさずだ。一日でも、怠れば、それは、駄目になると言う。

山岳のどんな本を読んでも、強く感じるのは、徒労と言う言葉だ。
徒労とは、一体、どういう言葉なのか?
無駄な骨折り。無益な苦労。と、辞書にはある。
小西氏のしたことは、徒労だったのか。
いいや、そうじゃない。
でも、なぜか、そこまでしなくてもとも、思う。いや、この人は、とことん行く人なんだなと、その強靭な精神に打たれる。
本田氏の言葉を借りれば、小市民的なものに、背を向けたと言うことだ。
そんな人生であり、それを自ら、選んだのだ。

ボクが、映画を作っているのも、小市民的なものからの脱却以外にはない。
それでも、とてもじゃないが、山岳家にはかなわない。
命を賭して、挑む。
その姿勢、精神にはかなわない。
読んでいて、そう思う。
それが、何か、後になって、ボクの中の闘志のようなものをかきたてていく。
「かなわい」なんて、言っていいのかと。
お前は、小市民として生きる道を拒否したんだろう。ならば、突き進むしかないではないかと。 

この本が出た後、沢山の小西氏に関する本が、出版されたようだ。
そして、御多分にもれず、この本が出版された16年後、小西政継氏は、マナスル登頂後、消息を絶った。
60に手が届く歳まで、山への執念に燃えたと言うことか…。

山に獲り憑かれた男の本を読むと、なぜか、心がそわそわと、落ちかなくなる。
闘志が、空回りしているのを感じる。
あくなき、「自分との闘い」なのだな、と痛感する、


                                     05/11



以下、本に書かれた以降の小西政継氏の年譜を、ここに記す。


  • 1980年 - カンチェンジュンガ主峰北壁の無酸素登攀を指揮、登頂に導く。小西自身は登頂に失敗。
  • 1982年 - 日本山岳協会の合同登山隊の登攀隊長として、チョゴリ北壁の初登頂を無酸素での達成に導く。隊員の遭難により、小西自身は登頂を断念。
  • 1983年 - 山学同志会の無酸素によるエベレスト遠征隊は登頂者を出すも、同時期にアタックをしたイエティ同人隊は吉野寛、禿博信が遭難。体力の低下により一線を退くことを考える。
  • 1984年 - 「クリエイター9000」を設立し、本格的な登山から退く。
  • 1993年 - アラスカ州のマッキンリーに登頂。
  • 1994年 - 小西自らが「エグゼクティブ登山」と呼んだ、現在主流のガイド付きのスタイルで、再びヒマラヤ登山を開始する。「シルバータートル隊」同人に参加し、ダウラギリⅠ峰に登頂。自身初の8000m峰登頂となる。
  • 1995年 - シシャパンマ中央峰に登頂を果たす。
  • 1996年10月1日- マナスルに登頂後、消息を絶つ。

  •                                  wikiより、抜粋、

    コメント

    このブログの人気の投稿

    Mさんのこと、

    最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
    Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

    Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
    配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
    昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
    旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
    コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
    そして、本の話や、映画の話をした。

    勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
    今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
    何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

    同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
    喫茶店を開くことだった。
    Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

    今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
    「美味しいコーヒーをどうぞ」
    の看板。
    店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
    店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
    客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
    それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
    「美味しいコーヒーをどうぞ」
    の看板が出ていた。
    系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

    Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
    いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

    一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
    まだ、店を始めて、間もないころだった。
    Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
    お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
    ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

    新年の抱負のようなもの、

    今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
    何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
    新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
    新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

    というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
    もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
    年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
    もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
    もう少し、時間が要る。

    そう。
    時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
    おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
    これでは、何も進まない。

    去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
    映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
    観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
    では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
    たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

    観たい映画があまりなかったというのもある。
    ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
    意図が、わかる。
    観る前からわかる。
    そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
    あとは、タイトル…

    あけまして、おめでとうございます。

    おくればせながらです。
    去年、義父が亡くなってしまい、本来なら、喪に服さなければならないので、新年のあいさつは、控えるべきなのですが、たまたま、数年ぶりに新作を作ったこともあり、仕事関係の人には、賀状を送らせてもらっています。もちろん、妻にも、承諾済みです。
    義父も、きっとゆるしてくれてると思っています。

    連れ合いを亡くすと言うことが、どんなことなのか、ボクにはわかりませんが、葬式から100日ぐらいしてからの義母は、まだ悲嘆に暮れているようです。
    娘である妻も、平常を装っていますが、きっとことあるごとに、父親の事を思っているに違いありません。

    ボクの母は、ボクが32歳の時に亡くなりましたが、今でこそ、亡くなった母よりも長く生きて来て、その辛さ、寂しさは、薄らいできましたが、10年ぐらいは、何をするにも、母の事が思い出されて、ああしてやればよかった。こうしてやればよかったなどと、後悔ばかりしている始末です。
    父の時は、ボクが、フランスのヴズールと言うところの映画祭に呼ばれていた時で、審査委員長として呼ばれたのですが、急遽帰国したことを覚えています。
    こういう仕事をていると、こんな私事で、仕事を放りだすのは、いけないことなのですが、なんとかわがままを聞いてもらい、帰国しました。

    父との思い出は、喧嘩と言うか、小言を言われるだけの存在で、今でも時々憎らしい気持ちになりますが、人間には、いろんな状態があり、苦しい時や、辛い時に、誰か身近な人に当たると言うのは、誰にでもあることだと今は理解しています。
    と、言うか、自分も似たことをしている時もあります。
    人間とは、弱いのだなとつくづく思います。
    ボクは、随分と父親には、逆らい、何一つ、父親ののぞむような生き方は、してきませんでしたが、きっと、父親は、そんなボクが、歯がゆくて仕方がなかったんだと思います。
    いまでいえばDVまがいに、殺気を帯びた目で、ボクを殴ることもありました。
    そうなってしまうともう手は付けられませんから、されるがままになっているのですが、それがボクの精神形成に、いい作用をしたことはあまりなく、反抗とか反発と言うのの芽が出始めたのも、そのころからではないかと思っています。
    でも、人は、いつか死にます。
    父の葬式の時に、形ばかりの喪主を務めさせてもらいましたが、みなさんに何か話している途中で、急に悲しみがこみあ…