2015年5月13日水曜日

ひとりの映画作家が、その国の、世界の映画史を塗り替えて行く

観て良かった。観る機会を与えてくれた、何かえもしれない衝動にも。東京国際映画祭のディレクターにも、あなたが書いたカンヌのレポートを読まなければ、出会えなかった映画でした。そして、鈍牛の国実さんにも、感謝します、
@masahirokoba
ツイッターより、





ひとりの映画作家が、その国の、世界の映画史を塗り替えて行く


ボクが、紹介するまでもなく、グザビエ・ドラン監督の映画は、既に、世界で、認知されており、改めて書くことはないのだが、まだアート系の域を出てないこともあり、これからの動向が気になるところだし、ボク自身が、『MOMMY』の次回作に、注目していることもあり、このブログにも、書いておこうかと思う。
自分自身への確認の意味で。

ドラン監督の映画を観たのは、一本きりだ。
今、公開されている、『MOMMY』だ。
ドラン監督にとって、もう5作目にあたるという。
26歳で、5本も映画を撮っていると言うことにまず驚かされるが、映画祭では、既に、評価されていて、今年のカンヌでは、審査員のひとりとして名を連ねているのだから、とんでもない躍進だと思う。

ボクは、例によって、映画祭で掛かったからと言って、それが優れたものだとの判断をすぐにして、食らいつくような真似は、しない。ボクも映画らしきものを作っているのだから、もちろん、やっかみもあるし、対抗心みたいなものも、少しはある。
おお、出て来たな! と、大拍手で迎えることは、出来ないし、したくない。
それでも、何本かが、日本でも公開されて、見たいなとは思っていたが、見なかった。去年だか、一昨年だかに、カンヌのHPで観た、『MOMMY』のトレーラーに、痛く感じ入り、まず観るのは、これだと決めていたからだ。
他の映画は、この映画を観てからでもいいと思った。
まずは、この映画だと決めた。

それでも、映画が公開されても、注目はしていたものの、なかなか映画館に行くことはなかった。
賞を獲った映画なので、混んでるかもしれない。
満席の中で、映画を観るのを好まないボクは、時間が経つのを待った。

それでようやく、有楽町でこの映画を観ることになった。
冒頭から、この映画に引き込まれた。
母親と子供の演技が、壮絶だったからだ。
画も、いい。
映画の内容は、敢えて書かないけれども、映画を観ながら、その圧倒的な演出力に、息が詰まった。
「ああ、これで、全ては終わったな」
と、何か、諦観のような気持ちが、湧きおこり、それは、映画が終わるまで、続いた。
ボクの居場所はないかなと。
そこにトリュフォーの面影を見たのかも、知れない。
しかし、ある意味、この映画は、トリュフォーを超えているとも思った。

凄まじい緊張感で、エンディングまでなだれ込むそのパワー。
均整のとれた画作り。
オーソドックスさと斬新さの混合。
見事と言う他はない。

ドラン監督の映画を観て、映画は変わったんだなとつくづく思った。
ただ、それが、突然変異ではなくて、映画史的な変遷の中にあることに、深く、共鳴し、驚嘆した。
26歳なのだ! 彼は。
これは、ちょっと信じられないことだ。
カナダの作家だと言う。
カナダのフランス語圏の監督なのか、言語は、フランス語だ。
それも、いわゆるケベック訛りと言うやつで、フランス人の大好きな、言葉の響きを持つ。
フランスで成功している歌手に、ケベック訛りの歌手が沢山いることからも、それは実証されているが、この映画が愛されたのは、単にケベック訛りのフランス語を使っているからとは、当然、思っていない。
ただ、その一要素としては、あるだろう。

映画は、インスタグラム的な、真四角の画面から始まる。
狭苦しい中での息詰まる親子の葛藤。
それが、突然、ビスタサイズになるかと思えば、また、真四角に戻る。
陰と陽の使い分けを、明解に画面で示したのだ。
これも、新しい使い方だが、トリュフォーも、似た事をしているし、それを踏まえた上での手法だ。
新しいことは、新しいのだが、思い付きではなくて、ちゃんと過去の映画の引用になっている。
ドラン監督が素晴らしいのは、観て来た映画の趣味がいいと言うこともある。
そして、それらを、徹底的に研究していること。
映画が、血肉となり、監督の内部で、常に、撹拌されていること。
それが、ストレートに、映像になっていることだと思う。

これは、ちょっとやそっとのことでは出来るものではない。
才能も必要だが、むしろ、努力だ。
好きで好きでたまらないのだ、映画が!
でなくちゃ、こんな映画は作れない。
でも、それだけじゃない。
一番肝心な、ドラマ部分が、濃厚だと言うこと。
ボクは、ツイッターでも書いたが、最後の方の、隣人との別れのシーンで、「うまい!」
と、唸ったほどだ。
どうして、こんな演出が出来るのか?
本人の前では、笑顔で、送り出しておいて、窓から、去っていく唯一の女友達でも隣人を見送った後、母親が、泣き崩れるシーン。
子供を手放した自責の念と渾然一体となったこのシーン。
素晴らしいのひと言しかない!

ラストは、あたかも「大人は判ってくれない」のラストシーンを観ているようだった。
ただ、『MOMMY』の場合は、少年が走っていく先には、分厚いガラスがあるのだが。
効果としては、似た効果だ。
海か、分厚いガラスか。どちらにしても、そう未来は明るくない。

映画を観ながら、カラックスやダルデンヌのことも、頭を掠めていった。
…もう、これ以上は、書く意味もない。
とにかく、素晴らしいの一言があればいい。

この映画を観た後、出来ればもう一本と思っていたが、当然、そんなことは出来なかった。
一日か二日。いや、一週間か。一か月か、一年か。
とにかく、余韻に浸っていたかった。
もう一度観たいと言う欲求を抑えて、過ごした。
そりゃあ、そうでしょう。
27歳で初監督したトリュフォーよりずっと若くして、監督したんだから。
そして、カンヌで、賞を獲ったのだから。
トリュフォーの再来と言っても、おかしくないじゃないですか!
ボクの出番がなくなったなと思うのは、当然ことです。

ドラン監督の新作が、発表されたようだ。
しかも、続けて、二本も。
一本は、舞台劇の映画化らしい。
それでボクは、ちょっと、嬉しかった。

何が嬉しいのかって?
何か、見えない糸で、つながっているような気がしたのさ。
気がしただけだけどね、



                                  05/13

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