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2010/07/31

いよいよ、七月も終わる。

今日と明日は、気仙沼の「みなと祭り」。

今日は、昨日入手した『稲妻』と『さらば冬のかもめ』を観ようと思っている。

大映の成瀬作品を観るのは初めて。

楽しみだ。

『さらば~』は、ビデオとレーザーで持っているのだが、比較的安価でDVDを手に入れた。

『稲妻』も同様。

『幕末太陽伝』も売っていたが、こちらは、買わなかった。

ボクはどうもこの映画は好きになれない。

どうしてか判らないが、嫌なのだ。これは生理的なものだから仕方がない。

それでも、帰りの車で、買っておけば良かったと悔やんでいる。

どうしてだろう…?

心底嫌いな映画なんて存在しないに違いない。

映画であれば基本的に好きなのだ。

あとは、観るタイミングだ。

その日の気分や体調も大きく影響しているのはもちろんのことだ。

去年は、『白夜』と『春との旅』で、一年間が終わってしまい、『春との旅』だけが今年に持ち越されている。この後、気仙沼での上映会があり、名古屋近辺での、上映会に行かなければならない。来年の二月なんて言う予定も入っている。

一昨年は『ワカラナイ』の製作。

こちらの方は、とっくに国内での上映は終え、DVDにまでなっているが、海外の映画祭では未だに声が掛かる。

何本かの映画が国内はもとより海外で上映されるのは嬉しい限りだが、映画の本当の評価は、いつまでも残る映画かどうかと言うことだ。

そういう意味では、ボクの映画は、まだ産声を上げたばかりだともいえる。

あと、20年か30年。

最低、それぐらい経たないと判らないだろう。

もちろんボクは、もうこの世にはいない。

だから、自分の映画の行く末は判らないけど、せめて生きてる間に、100年は生き続ける映画を一本でも作ってみたい。

映画を志したのだから、そんな妄想を抱くのは当たり前のことだ。

もちろん、至難の道だと言うことも判っている。





日中、こちらでは虫の鳴き声で、うるさいほどだ。

色んな鳴き声が聞こえる。

虫はなぜ鳴くんだろう?

自分の存在を知らせるために鳴くんだろうか?

もしそうだとしたら、人間も同様だな。

人間は鳴きはしないが、言葉を発する。

声が届かないところには、ツイッターなんてのもある。





『稲妻』観る。

大映での成瀬作品。

原作は、林芙美子。

『めし』が評価され、大映に招かれて作ったのか?

しかし、作品のグレードは、『めし』の方が遥かに良い。

これは、原作の問題も大きいのではないか?

いや、小説としては悪くはないのかも知れないが、映画にするような題材ではなかったのかも知れない。

ボクとしては、何とも消化不良。

ま、もう一度観てみないと判らないことだけど。





「みなと祭り」のはまらいんや踊りに出かけた奥さんと息子を迎えに気仙沼へ。

もどって、ビールといなり寿司。

映画祭もそうだか、ボクはあまり祭りと言うものが好きではない。

だから、あまり行かない。

子供のころからそうで、何度親父に叱られたことか。

でも、息子も奥さんも祭り好き。

健全な母子だ。

時どきうらやましいと思う時もある。

でも、仕方ない。

今更、自分の性格が変えられるわけもない。

ボクは昔から偏屈で、難しい。

そう言う自分も引き受けなくてはならない。

淋しいが、仕方ない。





親からの愛情たっぷりに育ったら、こんな男にはならなかったかも知れない。

博打好きの気性の荒い父親を持つと、こうなると言う見本だな。

だから息子には、ボクの影響で育って欲しくない。

ボクの二の舞は御免だ。

そんな連鎖は、要らない。





『ウォーク・ザ・ライン』観る。

観終わったら、もう夜が明けていた。

ジョニー・キャッシュの人生を描いたこの映画を観て、改めて知ることが沢山あった。

それまでボクは、低音を効かせたナッシュビルのカントリーシンガーとばかり思っていた。

ゴスベルに馴染み、カーターファミリーを子供の頃から聴き、兄を亡くし、ジューン・カーターと再婚したことなど、何も知らなかった。

歌手として成功しながらも、父親に認めて貰えない淋しさに、とても共感した。

もちろんボクは、成功者ではないが、父親から褒められたことはなかったからな。

しかし、ジューン・カーターとの結婚が、キャッシュを再生させる。

舞台でのプロポーズには、観ている方が照れくさくなったが、このぐらいのことがあった方が、いいのかも知れない。作為的の上を行く作為だな。

しかし、ずっと考えていたこととこの映画の根底に流れるものが見事に一致したのは、偶然だが、偶然もまた、必然がもたらした結果なのかな。

コメント

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新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
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あとは、タイトル…

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを…

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
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それも、かなりのピッチで。
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そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
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ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
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それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
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みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
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それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だっ…