2010年8月13日金曜日

2010/08/06

『ジャッカルの日』を観たことを、書き忘れていた。

初めて観たのは、三鷹オスカーだったろうか? それからDVDが出ると買い、レーザーが出ると買った。買ったばかりではなくて、何度も繰り返し観た。

どうしてか、ボクはこの映画がとても好きだ。

それは、舞台がヨーロッパで、特にフランスの香りがしていたからだろう。

トリュフォー映画でお馴染のマイケル・ロンズデール、デルフィーヌ・セーリグ、フィリップ・レオタールなどが出演している。

しかしこの映画の見事なまでの娯楽性は、やはり監督のフレッド・ジンネマンによるところが大きい。とにかく、冒頭から緊張の連続で目が離せない。『太陽がいっぱい』ばりの暗殺者の完全犯罪を目論む様の細かい描写。メルヴィルの『サムライ』に影響を受けただろう、寡黙で、ストイックな主人公。

こう書いていて、ジンネマン監督は、当初、アラン・ドロンを主人公に考えていたのではないかと思えるほど、『サムライ』への共通点は多とある。

しかし、だからと言って、主人公役のエドワード・フォッスの一世一代の名演を汚すことにはならないだろう。

とにかく、素晴らしい娯楽作だ。





以下、フレッド・ジンネマンションの経歴を、ウィキペディアより転載しておく。

彼の映画は、いわゆるアート系ではないことから、低くみられがちだが、一本一本の作品には、彼の人生同様の苦悩と映画への愛に満ちているように思う。



生い立ちと青年時代

オーストリア・ウィーンにて代々医師のユダヤ系ドイツ人(ユダヤ系)の家系に生まれる。父は医師のオスカー・ジンネマン、母はアンナ。



医師の子として生まれたジンネマンは子供の頃から音楽家になることを夢見ていたが、才能がないことを知り早いうちに断念する。



ウィーン大学在学中にキング・ヴィダーの『ビッグ・パレード』、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』、カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』、セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』等の映画に夢中になり、映画で生計を立てることを決心する。オーストリア流のファシズムが隆盛になりつつあったこの時期、両親の反対を半ば押し切ってフランスに渡りパリの映画撮影技術学校で学ぶ。その後、ドイツのベルリンでカメラマン助手の仕事に就くが、ハリウッドのトーキー映画がヨーロッパに到来し無声映画が終わりを告げた時代に入り、ヨーロッパの映画製作が停滞気味だと感じたジンネマンは今度はハリウッドに渡ることを決心し、1929年の秋、渡米する。時代は世界恐慌に突入する頃である。



修行時代

ウォール街が崩壊した日にアメリカのニューヨークに到着したジンネマンは、それからハリウッドに向かいカメラマンを志望するも意に反して配役係に回されて『西部戦線異状なし』(ルイス・マイルストン、1930年)のエキストラに就くことになる。



しかし6週間後、チーフ助監督と喧嘩をして首になった後、映画監督ベルホルト・ヴィアテルの助手になる。この頃のヴィアテル家の来客者にセルゲイ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリン、F・W・ムルナウ、ジャック・フェデールらがいた。その中の一人、記録映画監督ロバート・フラハティに助手になることを申し出てフラハティとともにベルリンへ渡る(この渡独は映画製作の為の一時的なもの)。この仕事は結局、実現しなかったがフラハティはその後のジンネマンの映画製作において強い影響を与えることになる。



見習い時代

不景気のどん底の1933年、メキシコから長編ドキュメンタリー映画の依頼があり、『波』(公開は1936年)を監督する。尚、この映画はジンネマンの知らないところでサウンドやシーンが付け加えられている。



ハリウッドでは、『永遠に愛せよ』(ヘンリー・ハサウェイ、1935年)の第二班監督や、『孔雀夫人』(ウィリアム・ワイラー、1936年)、『椿姫』(ジョージ・キューカー、1937年)での短い仕事に就く。



1938年、MGMで3年間、一巻物(約10分間)の短編映画の監督をすることになる。主人公の一生を、低予算、短期間、かつ上映時間は10分半で描かなければならないこの短編映画の仕事が、フラハティと『波』に続いて貴重な学習の期間を得る機会となる。 この頃に若き日のジュールズ・ダッシン、ジョージ・シドニー、ジャック・トゥールヌールらと知り合う。



映画監督

1941年にB級映画『Kid Glove Killer』を監督。これが初の(一般)長編映画で、これがジンネマンが見習いから職人になった映画監督としてのスタートになる。同じくB級映画の『Eyes in the Night』(1942年)を監督した後、1943年、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーでナチス・ドイツからの逃亡者を描いたAピクチャー『The Seventh Cross』(1943年)を、主役にスペンサー・トレイシーを迎えて監督するが、撮影後フロントと衝突したジンネマンは再びB級映画にまわされる。 撮りたくない映画を2本撮るとその後は来る脚本を次々と断り、結局そのことが原因でMGMから停職処分を受けることになる。



戦後、ヨーロッパから上陸した映画に対し、センチメンタリズムにあふれたハリウッド映画の中での仕事に、ジンネマンは疑問を感じる。



その頃、ジンネマンにヨーロッパの戦争直後を舞台にした瓦礫の中の飢えた孤児を描く映画の仕事が来る。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーも暫く厄介払いができると考え、『山河遥かなり』(1947年)の製作が始まる。完成した作品はアカデミー賞にノミネートされる(いくつかの賞は受賞)など評価は得たもののヒットまでには至らなかった。アメリカに渡って19年のジンネマンだが、映画の題材やメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの宣伝効果もあり、ヨーロッパから輸入した監督という印象を与えた。



1953年の『地上より永遠に』と1966年の『わが命つきるとも』でアカデミー監督賞を受賞している。



私生活

1936年に『永遠に愛せよ』で知り合った、イギリス人のレネー・バートレットと結婚。 1941年には後に映画プロデューサーになる息子、ティム・ジンネマンが生まれる。 アメリカへのビザを待っていたジンネマンの両親は、それぞれ1941年と1942年にホロコーストで亡くなる。ジンネマンがそれを知ったのは戦後になってからのことである。



後年はイギリスを拠点にしていた。1997年、心臓発作で死去。



主な監督作



山河遙かなり -The Search

暴力行為 Act of Violence

真昼の決闘 -High Noon

地上より永遠に From Here to Eternity

オクラホマ! Oklahoma!

夜を逃れて A Hatful of Rain

尼僧物語 The Nun's Story

サンダウナーズ The Sundowners

日曜日には鼠を殺せ Behold a Pale Horse

わが命つきるとも A Man fof All Seasons

ジャッカルの日 The Day of the Jackal

ジュリア Julia

氷壁の女 Five Days One Summer







今日は、『プレステージ』を観た。

これが二度目だが、一度目同様、睡魔との格闘で、話がよく判らないながら観!続けるが、ラストまで来て、二度観るほどのものではないと思った。

この監督の映画は、奇抜なアイデアと、手の込んだシナリオにより依存していて、『ダークナイト』では、コミックが原作ということもあり、その過剰なまでの演出と相まって、傑作を作りだしたが、本作や、その前の、『バットマン・ビギンズ』などでは、リアリティーをもってはじまった映画が、荒唐無稽さの中に収束されていくようで、観ている間は楽しめるのだが、観た後には、何も残らないということになる。

それはそれでいいというむきには、お勧めだが、ボクは御免だ。

別に映画を暇つぶしに観ているわけではないからだ。

ソダーバーグらがプロデューサーを買って出て成立した『インソムニア』のリメイクは、アル・パチーノとロビン・ウィリアムズという名優ふたりの組み合わせで、楽しめる映画になったが、元のノルウェー映画を観たものにとっては、映像の奇抜さがむしろあだになっているように思えてならない。

別に、嫌な映画というわけではないから、ご覧になっていない方は、ご覧いただきたい。



夜、テレビ放映されていたので、『サマー・ウォーズ』を観る。

ロカルノ映画祭で観た映画なので、ボクはもういいと思っていたのだが、息子が観ると言うので付き合った。

やたら滅多カットされていて、それでも、話の流れぐらいは判る。

しかし、地上波で映画は観るものではないなと思わせる。

以前、ある人が、ズタズタに切り刻まれてテレビで放映されても、ひどい画質のビデオで観ても、名作は名作だとおっしゃっていたが、この映画にはどうやら当てはまらないようだ。大ヒットした映画だから、敢えて難癖をつけさせてもらった。

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