2010年8月21日土曜日

2010/08/15

『告白』について、アップリンクの浅井さんが文章を書いていて、なるほどと思うところもあれば、どうかなと思うところもあり。

基本的に、浅井さんは映画の作り手と言うよりも、アップリンクの社長であり、自身も配給会社を経営したりしている人だから、見方も相当違うのは否めない。歳もボクより少し若い。

観てきた映画も違う。

ボクはこの映画については、もう書かないと宣言したのだが、浅井さんの文章がきっかけで、「映画以前」とツイッターで繰り返したら、誉めている人たちから、へそを曲げられた。

別に、へそを曲げられてもどうってことはないのだが、それで終わってしまうのも口惜しいので、改めて書くことにした。



でも、最初にこう書いておく。

以下の一行を読んで、「ああもう駄目だ。俺とは違う」と思う人は、読まないで欲しい。大ヒットした映画だから、苦言を呈するのであって、こけた映画に唾かけるようなまねは、同じ映画を作る身としては、やりたくないことだ。

中島監督の映画は、『下妻物語』しかボクには認められない。

しかし、『下妻物語』作った中島監督をボクは偉大だと思うし、CM上がりだとか言って揶揄する気持ちは毛頭ない。

ここには、映画の息吹に溢れていて、まるで全盛期のトリュフォーの映画を観ているような気持ちになった。

激しく嫉妬した。

DVDを買い、何度も見直したが考えは変わらない。

中島監督本人が、トリュフォーに遡って、この映画を構築したのかどうかは判らないが、トリュフォー映画から大きく影響を受けたであろう、『アメリ』からの影響は、十分に伺える。

それだけでボクには十分だ。

これは、もちろんパクリなどではなく、オマージュであり、この映画で中島監督は、大きく振り切ったのだと思う。

映画作りの自由を手に入れたのだ。

しかし、それに続く、『嫌われ松子の一生』では、その手に入れた自由を、我がものとし、また大きく確信犯的に展開させ失敗した。

『嫌われ松子の一生』には、『下妻物語』同様、『アメリ』からの影響は残っているものの、作為的で奇抜な映像処理ばかりが延々と展開され、映画にとってもっとも必要な、そして、中島監督だからこそ描き得たリリカルさの微塵もなかったのには、ショックを覚えた。しかし、この映画もヒットした。ヒットすれば、自分の方法論が間違っていなかったと理解するのは当然ことで、この作品以降、彼は、『下妻物語』で獲得した自由な映画作りを、独善的な映画作りにと発展し、誰にも歯止めが利かない存在になってしまったようだ。

『パコと魔法の絵本』は未見。観る気にもなれなかった。いつか観てみようとは思っていたが、今の今まで観てないのだから、きっと死ぬまでこの映画を観ることはないだろう。なので、この映画については書かないが、次の『告白』では、どうか?

中島監督はシリアスに徹して、この原作を脚色、スローモーションを駆使して、この映画を作った。

全体をモノトーンに加工し、あたかもホラー映画のようにこの社会性あるテーマ(うわべだけなのだが)を、処理していった。

しかし、何たる杜撰な脚本だろう。

すべてが映像を優先させた結果、登場人物の誰一人として人間性が感じられない。そればかりではなく、まったく物語の辻褄があっていないし、リアリティーも希薄と言うか、皆無だ。

もちろんすべての映画に、リアリティーが必要だなどと言っているのではないが、少なくとも、社会性もどきを映画に取り入れたならば、作り手の姿勢ぐらいは示して欲しいものだが、最低の作り手の節度なりも、この映画では示していない。むしろ、放棄しているように見える。

学校の窓が曇りガラスであったり、冬なのにプールに水が張っていたり、ファミレスの内部の有り様のお粗末さ。どれひとつをとっても、観客を馬鹿にしているとしか思えないではないか!

しかし、観客は、そんなことはたいしたことではないかのように、ほとんどといっていいぐらいに、このことには触れない。

むしろ、あらやるシーンに監督のメッセージが隠されているかのように、曲解してとらえる。

不思議だ。

以前、ボクは脚本家の先輩から、脚本はわけがわからないほうがいいと言われたことがある。

単純明快な脚本は、あらをつきやすく、質的にも低くみられるからだそうだ。

あたかも芸術作品であるかのように、読み手に深読みを強いるような難解なものの方が良いのだそうだ。

しかし、そんなことを言われて、「はい、そうですか」と、自分でも訳のわからない脚本を書くわけにもいかないから、それはそれで聞き返したが、理不尽な思いだけが残った。その人の書かれた脚本は、ある時から訳のわからないものになっていき、出来上がったドラマから知性は感じられるものの、感動を味わうことは出来なくなっていった。

映画を作り始めて、ある人からこんなことも言われた。

評論家が気に入るような映画を作らないと、一生浮かばれないよと。

ボクはびっくりして、聞き返したものだが、その人は、ボクのためを思っていってくれているのだなと思った。

「評論家が書きやすいように作る映画もある」

なるほど。

そして、その人は、こうも言った。

「映画は誰か一人のひとに向けて作られるべきなんだ」

と。

もちろんその人は、前者には、異を唱えている人なのだが、あまりにボクの映画作りに、戦略が見えないことに苛立っていたに違いない。

ボクは今でもそうなのだが、そもそも映画作りに戦略があるなどと思ったこともないのだから…。

以来、ボクは、その人の言われた後者、「映画は誰か一人のひとに向けて作られるべきなんだ」の意見には従って、映画を作ろうとした。

でも、これはことのほか難しい。

「よし! この人だ!」

と決めたところで、映画が制作されるとすっかりその人のことは忘れてしまい、ただただ作ることだけに没頭した。ただ一人の人に向けて映画を作ると言うことは、なかなか難しい。「その人が気に入るように映画を作る」ことは、さらに難しい。

でも、映画は、「一人の人に向けたラブレターであるべき」との言葉は、今もボクの大きな課題だ。

何本か、ボクは映画に献辞を載せた。

それら映画は、辛うじてその人のことを心に思い制作した。

しかし、最近のボクの映画に、献辞はない。

話を『告白』に戻すと、この映画、40億もの興行成績を上げたと言う。

ツイッターなどでも、「良かった」とか「面白かった」とかの書き込みが沢山ある。

しかし、だからと言って、ボクの見方が古いのとは思わない。

駄作だとは言わない。

確かに、映像には、目を見張るところが沢山ある。

でも、もう結構だ。

この映画の良いところを探し出したりする気持ちにはなれないし、とてもじゃないが、二度と観たいとは思わない。

観客を愚弄した映画が、大ヒットを飛ばした。観客は、愚弄されていることにも気づかない。むしろ、無邪気に歓喜する。

暗喩が込められているなどと持ち上げる。

馬鹿馬鹿しい。

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